第8話

その事件は、10月も終わりに差し掛かった、学園祭1週間前に起こった。

いつものように準備しているクラスメイトを軽く手伝った後、慌ただしく教室を後にしようとした時だった。

突然、教室の後方から苛立ちを露わにした男の声が響いた。


「オマエら、いっつも先に帰るよなー。俺たちが毎日何時まで準備してると思ってんだよ」

「ちょ、ちょっと、佐藤くんっ!」


教室に散らばっていたクラスメイトの視線が、一斉に集まる。

すかさず望月が声のした方向に駆け寄った。

俺と天音もその後を追う。

声の主である佐藤は、俺たちを目の前にしてもひるむことなく、心底うんざりしたような目で睨んできた。


「最初の分担で、俺たちは当日の担当だって決まったよな?」


望月は佐藤の目を見据えて、キッパリと言い切った。


「担当って言ったってさ、こうも毎日毎日気楽に帰られちゃあ、気分悪いぜ」


学園祭の開催日が近くなり、クラスメイトの大半が部活の催し物の準備に追われて、クラスの方はわずかな人数で進めなければいけない日が続いていた。

今日も俺たちを含めて10人しかいない。

そんな中で、部活に所属してない佐藤は、ずっと率先してクラスの準備を進めて、上手く統括してくれていた奴だった。


「帰る理由も話しただろ?」

「ああ、外部の合唱団だっけ?それの練習に行ってんだろ?そんなの分かってるさ」

「なら何でそんなこと言い出すんだよ。部活の連中だって、クラスの手伝いは出来ないだろ?」

「部活って、そりゃあ学校の中の事なんだからしょうがないだろ」


つまり、部活は学園祭のために動いているのだから納得できても、校外の活動のために抜け出すのは気に入らない、ということなのだろう。

正直言うと、俺は佐藤の気持ちが分かる気がした。

やっぱり面白く思わない奴がいる、という読みは当たっていたわけだ。


「俺たちだって申し訳ないと思ってんだよ。だから毎日それなりに手伝ってきたつもりなんだけどな」


若干喧嘩腰の望月に代わって、俺はその場をなだめるように話しかけた。

佐藤はチラッと俺を見遣った後、視線を天音に移した。


「岡崎、オマエも合唱団に入ってんのか?」


天音が一瞬不安げな目で俺を見た。

早口で低い佐藤の声が、上手く聞き取れなかったようだ。

俺は佐藤の話をそっと耳打ちして教える。


「そうだよ、だから一緒に帰ってんじゃねぇか」


天音に代わって望月が意気込んで答えた。

その声を差し置いて、佐藤はぐいっと天音に近づく。


「本当か?岡崎」

「本当だよ」


かろうじて聞き取れた言葉に、天音自身で答える。


「岡崎、ずっと思ってたんだけどさ、オマエのその話し方って何か意味あんのかよ」


そうか、コイツは理由を知らないのだ。

もう入学して半年以上経つというのに、耳に障害を抱えていることを天音は未だにクラスに公表する機会を逃していた。

俺は天音の右腕を掴んで、こっちを向かせた。


「天音、オマエの耳の事、ちゃんと話した方がいい」


どことなく馬鹿にされている様子に俺は苛立っていた。


「分かった」


いつの間にか、教室にいたクラスメイト達が俺たちの周りを囲んでいる。

天音はもう一度佐藤に向き直って、以前俺たちにしてくれたように説明し始めた。

天音は俺と望月以外のクラスメイトとほとんど話をしたことが無い。

天音の話し方を初めて間近で聞いた女子が、ひどく驚いた顔で天音を凝視している。


「……そういうわけで、俺はこんなしゃべり方をしている。ふざけているわけじゃないんだけど、もしみんなを不快にさせていたなら、申し訳なかった」


うつむきがちになりながら、天音は言葉を締めくくった。

佐藤がますます訝しげに天音を見据えている。


「そんな耳で合唱団?ますます意味分かんねぇ」


佐藤の頬の端に、かすかな侮蔑の色が現れたのを俺は見逃さなかった。

一瞬でカッと頭に血が上る。


「佐藤っ、オマエ……っ」


俺は思わず奴の胸倉を掴みにかかった。

一瞬早く、天音が俺の左腕を掴んで後ろに引っぱり押さえ込む。


「貫、やめろって。いいから」

「離せよ、天音っ!いいか、佐藤。コイツは合唱団の方から誘われて入ったくらいなんだ。聴こえない音があるとか、関係ねぇんだよ!」


何かとてつもなく悔しい思いが溢れて、俺は噛みつくように怒鳴り散らした。

その迫力にいささか気後れした佐藤は、それでも負けじと睨み返してくる。


「へぇ……。そんなにすごいんなら、歌ってみせろよ。今、ここで」


からかうような口調で言い放たれた言葉に、他のクラスメイトの目も好奇心に疼きはじめた。

しまった。

これじゃあ、まるで見世物だ。


「岡崎、聴かせてやれよ。じゃないと佐藤も納得しないだろう」


望月までこの状況の後押しをするのか。

天音はキュッと唇をつぐんだまま、俺の腕を離さない。

離せばまた、突っかかっていきそうな俺を危惧しているのだろう。


「そんなこと……」

「歌うよ」


要求を撥ね退けようとした俺の声に重なって、天音の声がハッキリと響いた。

俺は驚いて、後ろ手にいた天音を振り返った。

多分、心配でたまらない視線を俺は寄越していたのだろう。

奴は「大丈夫だから」と小さく呟いて、掴んでいた俺の左腕を押しのけて、ぐいっと前に出た。


「アヴェ・マリア。多分、聴いたことある曲だと思う」

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