第7話
天音はまだ不思議そうにしながらも、少しホッとした表情で俺を見下ろしてくる。
「天音、ちょっとだけ一緒に歌ってみる?この曼陀羅見ながらさ」
「え?」
ふと俺は、初めてこの場所に来たときの天音の言葉を思い出していた。
曼陀羅の幾何学模様が音になって降りてきて、自分の中に溢れる……。
コイツ、そう言ってたよな。
その降りてきた音を声にしてほしい。
そして俺は、その声に包まれて歌ってみたい。
「アヴェ・ヴェルム・コルプス。アルトとテノールの音は無いけど、ソプラノとベースだけでもいいよな」
天音の顔が、パァッと明るくなった。
心底嬉しそうに俺の隣に寝そべってくる。
「あ、ここ、ホントに防音効いてるかな。念のため、ちっちゃい声で歌おうぜ」
さっき蒼空で歌ったような声だと、防音が無ければ夜だし近所迷惑だ。
それに俺は、正直あの声に釣り合う自信がまるで無かった。
指先で天音の手の甲を軽く叩く。
「コレ、出だしの合図。1・2・3・ハイ、な」
天音ははにかんで小さく頷くと、天井を見上げてスッと息を吸った。
「あ、ワリィ、最初の音くれない?」
俺は慌てて、天音に音出しをお願いした。
あ、そうか、というように、天音は最初のソプラノの音を出してくれる。
俺はそこからベースの音を拾った。
「今くらいの大きさの声な」
「ああ。ピアニッシモ、だな」
「そう、ソレソレ」
俺たちは顔を見合わせてフフッと笑いあった。
再び天井を見上げて、カウントを取り始める。
声を絞って歌うというのは、フォルテで歌う時に比べて相当気遣いが必要だ。
送り込む息の量を加減しつつ、腹筋で作った土台を緩めず一定に保つ。
そうしなければ、音がぶれて震えてしまったり息漏れの原因になってしまう。
特に横たわった状態で歌う時は、呼吸は自然に腹式になるけれど、腹筋は立っているとき以上に意識しなければならない。
更に、喉もしっかり開いてやらないと声が詰まって聞き苦しいし、実際本人も苦しくなってしまう。
俺は自分の状態を整えながら、慎重に声を出した。
天音の高音と俺の低音が重なり合う。
HARUKAで何度もみんなと歌ってきたアヴェ・ヴェルム・コルプス。
何度も耳にしてきた音。
今だってその通りに聴こえるはずだった。
なのに。
天音も驚いたような顔で俺を見ている。
ああ、きっとオマエも同じこと感じてるんだな。
俺たちの声、寸分違(たが)わずシンクロしてる。
声質も音も全然違うはずなのに……。
一緒に歌うと、天音の声がまるで自分の声のように感じられるのだ。
俺自身がソプラノを歌っているような感覚。
すごい……すごいよ、天音。
こんなの、俺、初めてだよ。
しばらく見合っていた俺たちは、お互い眩しいものを見るように笑いあって、再び天井に視線を戻す。
音が降ってくる。
オマエの感覚、なんとなく分かる気がするよ。
歌が終わっても、俺たちは動けずに天井を見上げたままじっとしていた。
隣で天音が息を吐く音が聞こえた。
俺は横目で奴の顔を見る。
途端に、キュッと心臓を掴まれたような気がした。
「天音……」
ぼんやりと緩く開かれた目尻から、涙が伝っていた。
柔らかな肌の上を光りながら流れ落ち、耳の上の髪を濡らしている。
俺は何か言いたいのに言葉にならず、そんな天音から目が離せない。
放心状態から鼻をすすって、天音はゆっくりと俺の方を向いた。
「貫……。聴こえた」
「何が」
「オマエの声と一緒に歌うと、聴こえるはずのない音域も聴こえたような気がしたんだ。すごいよ、こんなの初めてだよ。俺、やっと自分の音に出会えた気がする」
想像だけで歌っていた音。
それがコイツの耳にも届いたってことか?
「なんでオマエの声は全部聴こえるんだろうって、ずっと不思議に思ってた。理由はやっぱり分からないけど、俺の耳にはオマエの声が必要なんだ。今、それが分かったような気がするよ」
あふれる涙を拭うこともせず、天音は微笑みながら俺を見続けていた。
「もう一回、歌ってみようぜ」
オマエの音、もっと聴かせてやりたい。
コクンと頷いて、天音はぐいっと涙を拭きながら天井に向き直った。
再び手の甲にカウントを取る。
重なり合う音が、真っ白な壁に反響してふたりを丸く包んでいく。
クライマックスに差し掛かる、高音にのびていくところで、不意に天音がギュッと手を握ってきた。
この音がオマエの出会えた音なのか。
俺も力強く握り返したところで、歌が終わった。
音の余韻が耳に残り、なんだか身体が浮遊しているような感覚だ。
「ありがとう、貫。今日のコト、一生忘れない」
握り合っていた手をそっとほどいて、天音はゆっくりと起き上がる。
濡れた髪を袖口で軽くこすって指先でほぐし整えると、気持ちを入れ替えるように勢いよく立ち上がった。
「もう帰ろうか」
まだ寝転がったままの俺に右手を差し出してくる。
俺は小さくうなずいて、その手を掴み取る。
「うわっ」
思いがけない強い力で俺は引っ張り上げられ、よろめきながら立ち上がった。
コイツ、意外に力あるんだよな。
よく食うせいか?
その様子をハハっと笑い飛ばし、天音はカバンの中からさっき書いた手紙を取り出して玄関に向かっていく。
俺も慌てて手紙を取り出して、奴の後を追った。
帰りの道すがら、天音はチラチラとこっちを見てくる。
ん?
不思議そうに見返すと、照れたようにうつむいて、ためらいがちに口を開いた。
「貫、手紙に何書いた?」
「え?」
「あ、いやゴメン。そんなの聞くべきじゃないよな」
人のプライベートに踏み込もうとした自分を恥じたのか、暗がりでも赤面している様子がうかがえた。
そうか、普通の人間ってこんな感覚なのか。
天音が俺に問いかけた言葉は、いつも俺が他人に対して無頓着に発してきたものだ。
やっぱり俺はデリカシーに欠けるんだな……。
「いや、たいしたこと書いてねぇよ。でもナイショな」
例の感情のコトなど、天音本人になんて言えるはずもない。
ただ読み流してくれる栗生さん宛てだからこそ、素直な気持ちを書いてしまったのだから。
天音はコクコク頷いて、ほんの少し足早になる。
俺はフッと笑って、待てよ、と呼びかけながら再び肩を並べた。
眉のように細い三日月が、透き通った秋の空気の上でひときわ輝いている。
その突き刺さるような先端を見上げながら、俺も今日のことは忘れない、と唇をキュッと噛みしめた。
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