第6話

外に出ると、辺りはすでに真っ暗になっていた。

腕時計は7時を指している。


「こんな時間から訪ねても大丈夫なのか?」


そろそろ夕食の時間に差し掛かっている。

まあ、あの家はそんな生活感はまるで無かったが。


「ああ、栗生さんはあそこに住んでるわけじゃないから。何時くらいまで鍵を開けているのか知らないけれど、HARUAKの後に行ったこともあるよ」


へえ……。

ずいぶん不用心だなと思ったが、よく考えたらあの家にあるのは天井いっぱいに描かれた曼陀羅の絵だけだ。

泥棒が入っても盗める物すら無い。

もしかすると、鍵は開けっ放しなのかもしれないな。

家の前に立つと、玄関先に小さな灯りがひとつ灯っているのが見えた。

それは暗闇の中でぼんやりと揺らめいて、この家をノスタルジックに仕立て上げていた。

俺たちはそっと玄関に入る。

白に統一された内装はグレーの影を所々に抱えて、殊更無機質な様子を醸し出していた。

昼間とはイメージが違うなと思いながら曼陀羅の部屋に入る。

そこは昼間と同じ明るさで、相変わらずどこから照明が入っているのかよく分からない作りだ。

天音はカバンを部屋の片隅に置いて、部屋の中心に寝ころんだ。


「やっぱり落ち着くな」


うっすらと目を閉じながら呟く天音の声が、丸く反響している。

俺も天音の左隣に座って、天井を見上げた。

しばらく俺たちは何も喋らず、ただぼんやりと曼陀羅を眺めた。

ふと、右手の袖口を引っ張られたような気がして、視線を下に向ける。

天音がかすかに微笑みながら、俺の袖口をつまんでいた。


「貫も寝ころべよ。首、痛くなるだろ?」


そうだな。

俺は素直にうなずいて、そっと天音の隣に寝ころんだ。

またしばらく無言になる。

曼陀羅の中心で微笑んでいる釈迦如来の姿を見ていると、何だか心が浄化されていくような気がする。

俺はいつの間にかウトウトしていた。


「貫」


突然耳元で天音の声が聴こえた。

ハッと目を開けて右を向くと、思いがけず奴は近距離で俺の顔を見ていた。

驚いて、すかさず俺は飛び起きる。


「何だよ、オマエ、近いぜ」


焦りながらも、心臓の音がやけに大きく鼓膜に響き渡った。

あまりの慌てぶりに、天音はクックと笑いだす。


「驚き過ぎだろ?眠いのか?」

「眠いわけじゃないけど……」


目をこすりながら、俺はチラッと天音を盗み見た。

横向けに寝そべりながら、奴は横目で俺を見上げている。

その表情は、まだまだ少年のようなあどけなさに溢れていた。


「今日、ありがとな、貫」


突然天音は、囁くような声で照れたように笑った。


「これも贅沢な悩みだけどさ。望月のこと……。俺のコト、ちゃんと理解してくれる人がひとりでも多く傍にいてくれるのは在り難いと思うよ。でも俺、実はちょっと寂しかった。仕方ないって分かってるけど、俺、貫と望月の会話にはやっぱりついていけなくて」

「天音……」


やっぱりそうだったんだ。

蒼空ではそんな話はしなかったから、俺の考えすぎだったかと思ってたけど。


「さっきは真治さんの前だったから、言わなかったけど。でも貫は気が付いたんだなって思ってた」


ニコッと笑って、天音はグルッと寝返って仰向けになる。

うっすらと目を閉じて、安心したような表情だ。

あの時言い淀んで考え込んだのは、そういうことだったのか。


「いつからだったんだよ、そんな風に思ってたのは。昨日今日の話じゃないだろ?もっと早く言えよな、そういうコト」


俺は天音が本心を見せてくることにホッとして、思わず少し声が震えた。


「俺、ずっと気になってたんだ。だけどオマエ何も言わないから、また俺の勘違いっていうか失言になりそうな気がして、何も言えなかった」


天音は閉じていた目を開いて、ゆっくりと俺を見た。


「オマエらしくないな。最近なんでもズケズケ言わなくなったのは、HARUKAに入ったせいか?この際だから言うけどさ、オマエ、周りに気ぃ遣いすぎて疲れない?」


突然俺に話が振られて、ドキッとした。

なんでコイツ、こんなこと言い始めるんだろう。

確かに俺は、あそこで浮いてしまわないようにと細心の注意を払いながら過ごしている。

今までみたいに、思ったことをそのまま口にすることはない。

話をする時はいつも、それが場の空気に合うのか、頭の中で目まぐるしく精査している。

そして考えれば考えるほど分からなくなってしまって、どんな話であろうと相手に同意することでその場をやり過ごしていた。

しかし3人で居るときは素の自分でいたつもりだったのに、いつの間にか天音にも気を遣っていたのか。

黙り込んだ俺を見て、奴は柔らかな笑顔のままフッとため息をついた。


「俺、前に言ったよな。そのままのオマエでいいって。みんなに合わせようとしなくていいよ。本当の自分を見せられてこそ、あの場所がオマエの場所になっていくんだろ?」

「そんな簡単に言うなよ。俺はあの雰囲気を絶対に壊したくないし、俺の言葉で傷つく人がいるかもしれないのは嫌なんだ」


天音、オマエが言ってくれること、本当に嬉しいし有り難いと思う。

でもやっぱり俺は、自分をさらけ出して受け入れてもらえるほどの自信が無いんだ。

特にHARUKAはずっと付き合っていく仲間なのだから、失敗は出来ない。

多分俺は苦々しい顔をしたのだろう。

天音は一瞬悲しそうな目をした。

しかし、グッと起き上がって俺と視線の高さを合わせると、やけにハッキリした声で話し始めた。


「どういう理由であろうと、言いたいことのひとつも言えないのはダメだ。オマエ忘れてるみたいだからもう一回言うよ。すべての人間に好かれる奴なんか、いない。なのに、今のオマエは何だかんだと理由をつけて、結局誰からも嫌われないようにと取り繕っているようにしか、俺には見えない」

「な……っ」

「あそこの人たちは、今まで俺たちの周りにいた人間とは違う気がするよ。俺のこの話し方を、ここまで受け入れてくれるなんて、正直驚いたんだぜ。オマエも、もっと自然体になればいい」


天音は俺の痛い部分をどんどん突いてくる。


「それに俺が歌いたいって言ったせいで、オマエが合唱団に入って頑張りすぎているんだとしたら、それは正直、嫌だ」


最後の言葉が、俺の心を深くえぐった。

俺がどんなに隠そうとしても、天音には俺のしんどさが分かってしまうのか?

そんなに心配してくれて、オマエのせいなんかじゃないのに。

そう思った瞬間、俺は何故か笑いがこみ上げてきた。


「……ふっ」


突然小さく肩を震わせ始めた俺に、天音は驚いた顔を見せた。


「なんだよ、急に笑い出して」


俺の反応があまりにその場の状況にそぐわないことに、奴は訝しげな目つきを寄越してくる。

正直俺も、どうして急に笑ってしまったのか分からない。

でも。


「俺たち、ホントお互い相手のコトよく分かっちまうんだな」

「は?」

「オマエ、さっき蒼空で俺に何て言った?『貫は何でも分かっちまうんだな』って言ってたよな。俺、今オマエに、そう思った」


そうだよ、何でこんなにお互い分かっちまうんだ?こんな奴、今まで出会ったことなかったぜ。

キョトンとしている奴の顔をグッと覗き込んで、俺は小さく「ありがとな」と呟いた。


「俺、オマエが俺のコト分かってくれてるならそれでいいやって、今思ったよ。他の人にどう思われたっていい。だから俺、もうちょっと気楽になってみる」

「貫……」


HARUKAは様々な世代の人が寄り集まって、ひとつの目標を目指していく場所だ。

そんな今まで経験したことのない環境の中で、俺は今までと違った自分にならなきゃいけないって思ってた。

でも何が人の気に障るのか、実のところハッキリ理解できていないのだから、闇雲に自分を押し殺すことで馴染んだつもりになっていたんだ。

確かにそれじゃダメだ。

俺らしくない俺を受け入れてもらったって、結局どこかで爆発してしまうだろう。

俺は何かが吹っ切れたような気持ちで、勢いよく床に寝転がった。

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