第5話

俺もシンジさんの提案にビックリした。


「なーんにも考えずに、歌ってみてくれよ。今のオマエが出せる、一番いい声で」


シンジさんの意図することが分からない。

でも俺も久しぶりに天音の歌が聴きたかった。

戸惑っている天音に、ほら、というようにシンジさんは顎をしゃくった。


「何歌えばいい?」


ソロソロと椅子から立ち上がって、奴は心もとない目をしている。


「俺、久しぶりにオマエのアヴェ・ヴェルム・コルプスが聴きたい」

「あ……、うん」


少し緊張していた天音の身体から、フッと力が抜けるのが分かった。

それと同時に、スッと息を吸い込む音がする。

あ……。

3ヶ月間、マンツーマンでヴォイストレーニングを受けた身体は、呼吸の仕方からすでに変わっていることに気が付く。

天音はすでに、完璧な腹式呼吸を身に着けていた。

男性は普段から腹式呼吸だが、やはり声楽では改めてソレを意識させられる。

口蓋位置を高くするため頬が上に引き上げられ、自然に笑顔に似た表情が溢れだす。

そして何よりも今までと違って見えたのは、その目力だった。

息を吸うと同時に、一点を見据えるように目を見開く。

一瞬で歌う姿勢を整える様子に、俺は早くも圧倒されていた。

柔らかな唇が最初の発音をかたどり、歌が始まる。

……なんだ、コレ……。

俺は右手で左腕を擦って、鳥肌が立っている自分に気が付いた。

格段に豊かになった声量は、全く無理をしている感じがしない。

柔らかな声色のなかに通った芯はぶれることなく、四方の壁に反響するほどだ。

確かにアヴェ・ヴェルム・コルプスなのに、以前聴いたソレとは全く違う。

基本的な声質が変わったわけじゃない。

しかし正しい発声法で歌う声は、軽やかさの中にも重量感を伴って耳の奥に響いた。

恍惚とした表情で歌い続ける天音の周りの空気が、ピリピリと震えているのが分かる。

何だか俺の知っている天音じゃないような気がして、思わず俺は奴の左手を掴んだ。


「天音!」


ビクンと震えて、歌が途中で途切れる。


「どうしたんだよ、貫」


驚いた顔で見下ろした天音と視線を絡めて、俺は何も言えずに握りしめた掌に力を込めた。


「すごいな、天音。俺、オマエの歌初めて聴いたけど、正直ビックリしたよ」


カウンターの向こうから、シンジさんが場を取り成すかのように話しかけてくる。俺はチラッとシンジさんを見て、重い溜息をついた。


「貫、手ぇ、痛いよ……」

「天音、置いていくなよ」


天音の声に被せるように、俺は無意識に呟いた。


「え?」

「俺を置いていくなって」


戸惑い困った表情の天音は、何か言おうと口を開くけど言葉が出ないようだ。

俺も何が言いたいのか自分でもよく分からなかった。

ただ、得体の知れない焦燥感が胸を埋め尽くしていた。


「オマエ、前とは全然違うよ。最初からすごいって思ってたけど、今の声……。もう俺なんか一緒に歌えないような気がする」

「何言ってんだよ……」

「俺とカルテットするんだよな?この約束、生きてるよな?」

「アタリマエだろ?!オマエと歌いたいっていつも思ってるよ。なんで急にそんな……」


俺はブルッと頭を一振りして、握りしめていた手をゆっくりほどいた。

俺たちの様子を見ていたシンジさんが、静かに語りかけてくる。


「オマエたち、お互いに相手の持ってるものを求めてんだな」


どういうこと?

俺と天音は無言でシンジさんの顔を見つめた。


「天音は貫みたいに、普通に合唱団の一員になりたいと思ってるし、貫は天音の声に追いつきたいと思っているんだろ?」


俺たちはお互いに顔を見合わせた。


「じゃあ、お互いに近づけばいいじゃないか。天音は団員として舞台に立ちたいんだろ?それはちゃんと上層部に伝えるといい。貫は、もっとトレーニングして、声を鍛えればいい」


シンジさんは眼鏡の奥で穏やかに笑った。

そうだ、単純にずっと天音の歌を聴いていたいと思っていた以前とは違って、俺もコイツと一緒に歌うっていう目的に向かっているんだ。

ただ「聴く」だけなら、純粋に今の声を称賛できただろう。

だけど、コイツの声に追いつくために合唱団に入った俺は、追いつく前にどんどん上達していくコイツにひどく焦ってしまったんだ。


「シンジさん、ありがとうございます。俺、ここで天音の歌が聴けて良かったです。他の場所で聴いていたら、俺、自分が整理できなかったかもしれません。シンジさんのおかげで、落ち着けました」


俺は気恥ずかしくなって、うつむき加減で頭を掻いた。

シンジさんはニコッと笑って俺を見た。

その視線を、ゆっくり天音に移す。


「天音、聴こえない音域があるのに、よくここまで頑張ったな。オマエはもっと自分を評価していいと思うぞ?」

「真治さん……」

「だから、舞台に立てないって自分勝手に決めるんじゃない。やれるだけのことをやって、それでも本当に立てないことになったら落ち込めばいいんだ」


泣き出しそうに顔をクシャッと歪ませて、奴は笑った。


「ほら天音、座れ。サンドイッチ食って」


シンジさんは優しく手招きして、天音を椅子に座らせた。


「貫、ゴメン。真治さんの言う通りだな。俺、自分で勝手に落ち込んでた。心配かけて、ホントごめん」

「いや、俺の方こそ久しぶりにオマエの歌聴いて焦っちまって……。ゴメン」


ふたりとも照れくさくて目が合わせられず、無駄にコーヒーカップを揺らしてみたり、サンドイッチをわざとゆっくり食べながら言葉を交わした。

そうするうちに他のお客さんが来て、シンジさんはそっちの方の接客をし始める。

天音は思い立ったようにカバンからルーズリーフを取り出して、何かを書き始めた。


「ん?何書いてんだよ?」


俺はヒョイっと天音の手元を覗き込んだ。


「栗生さんへの手紙。今から曼陀羅の家に行こうと思って。貫も行く?」

「あ、ああ、行くよ」


あの空間で、もう少し心を鎮めるのもいいだろう。

天音は時間が許す限りあの家に行っているようだけど、俺は初めて連れて行かれて以来、一度しか訪ねていない。

天音は時折考え込むようにペンを止めては、再び書きはじめるということを繰り返している。


「手紙、俺も書いていいのかな」


俺は思わず小さな声で呟いていた。


「いいと思うよ?返事は無いけど、絶対に読んでくれるし」


はにかみながらチラッとこっちを見て天音は答える。


「天音は、今の気持ちとか書いてるって言ってたよな」

「そうだよ。俺が今、一番伝えたいこととか」


そういうのを書けばいいんだな。

俺もレポート用紙を取り出して、手紙を書き始めた。

俺は栗生さんと直接やり取りをしたことがない。

彼について知っていることも、ほとんどない。

一番初めに蒼空に来たとき、シンジさんが栗生さんに俺のことを話してくれると言ったから、あっちは知っているだろうけど。

知らない人に向かって自分の気持ちを吐き出す。

これが意外に素直になれるものだということを知った。

返事も無い、と聞いて更に気が楽になっている。

適切じゃないけれど、神様の前で懺悔ってこんな感じなんだろうなと思った。

今までの自分のコト、合唱を始めたキッカケ。

思いつくままつらつらと書き連ねる。

抱え込んでいる焦燥感、そしてまだ誰にも話したことのない、天音への不可解な感情のことも。


「貫、書けた?」

「あ、ああ。でも俺、失礼のないように書けてるか自信ねぇな」

「大丈夫だって、栗生さんはそんなこと気にしないと思うよ」


そう言ったって、オマエだって彼には会ったこと無いんだよな?

どんな人か、ホントのところは分かんねぇだろ。

とりあえず丁寧に書いたつもりだし、まあいいか。

俺は手紙を折りたたんでカバンに突っ込んだ。

俺たちは他のお客さんと談笑しているシンジさんに、代金をカウンターに置いたことを伝えて蒼空を後にした。

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