第3話
「…………あっ!」
俺の隣に立っていた、同じベースの森本さんが小さな声をあげた。
他の団員も、かすかにざわついている。
俺は、何が何だかよく分からなかった。
水城さんとその男性が舟橋さんの隣に立つ。
「皆さん、今回のオーケストラは『SIGNAL』です。今日は、オケのマエストロが直々に来てくださいました」
「えぇっ!」
再び森本さんが驚愕の声をあげる。
ホールの所々で、同じような声が響いた。
いったい何をそんなに驚いているのだろう。
「森本さん、あの人知ってるんですか?」
俺は小声で森本さんの耳元に尋ねる。
「貫、知らないのか。あの人、TASUKUだよ。有名な指揮者だぜ?」
「タスク?」
「そっか、オマエ、この世界のことあまり知らなそうだもんな。あの人、ずっとウィーンの交響楽団で第一線にいたのに、去年突然退いてさ。日本に帰ってきてたのは知ってたけど」
俺はまじまじと前に立っている男性をながめた。
細身ながらも、顔の輪郭は若干丸みを帯びて柔らかな雰囲気を醸し出している。
穏やかに微笑んでいる目尻には、人の好さをうかがわせる皺が何本か深く刻まれていた。
「皆さん、初めまして。TASUKUです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、去年僕はウィーンの楽団の第一指揮者を退いて、活動の拠点を日本に戻しました。ウィーンにも一応まだ在籍していますが、僕は僕の音楽を一から作り上げたくて『SIGNAL』というオケを立ち上げました。ようやくメンバーが揃ったばかりでオケとしての実績は皆無ですが、メンバーは僕が自らスカウトした一流の奏者ばかりです。こちらの合唱団の皆さんとの演奏を『SIGNAL』のデビューとさせていただけたらと思いました」
かすかにハスキーな声が耳に心地よい。
ゆっくり目の口調で落ち着いた話し方なのに、最後に慌てたようにペコリと頭を下げる様子は、ほんの少し子供っぽいような一面を見た気がして妙に親近感が湧く。
俺は思わずクスリと笑った。
「今日はパート練習から入ってください」
一通りの挨拶を終えると、舟橋さんはタスクと一緒にホールを出て行った。
団員のみんなは興奮しきって、練習どころの騒ぎじゃない。
「あのTASUKUと共演できるなんて、夢みたいだな」
「それも、オケの初演よ!私、友達に自慢しちゃう!」
そんなにすごいことなんだ。
全く何も知らなかった俺は、みんなのテンションにただ驚くばかりだ。
望月をチラッと見ると、奴も大はしゃぎしている。
後ろの方にいた天音が、俺のそばに寄ってきた。
「あ、天音。オマエ、タスクって知ってた?」
「ああ、TASUKUは知ってるよ。ニュースとかでも見てたし」
そうか、ホントに全く知らなかったのは俺くらいか。
昔から自分の興味のあるものにしか目が向かず、人気アイドルですら顔と名前が一致しないのだから、クラッシック業界のことなんて知るはずもなかった。
結局今日は最後まで舟橋さんはホールに戻ってくることなく、ずっとパート練習で終わった。
さすがに練習中はみんな真剣だったが、帰宅時はまたタスクの話で持ち切りになった。
「くっそー、やられたなぁ、まさかTASUKUの立ち上げたオケだったなんて」
悔しそうにしながらも、やけに浮かれた声の望月は、いつもに増して饒舌だ。
「田所さんも言いたくてしょうがなかっただろうなあ」
サブパートリーダーまで降りていたその情報は、発表までは極秘ということになっていたようだ。
「そんな有名な人が立ち上げたオケなら、この業界ではそうとう話題になってたんじゃねぇの?なのに、なんでネットにも挙がってなかったんだ?」
俺は不思議に思って望月に尋ねる。
「TASUKUはウィーンを退いてから、どこのオケにも立っていないんだ。客演指揮者として引く手あまただったはずなのにさ。本当に日本に帰国したのか怪しまれたくらい姿を消してたんだけど、ずっとオケメンのスカウトしてたんだな。多分『SIGNAL』っていう名前も、ここで初めて公にしたんじゃないかな」
興奮冷めやらぬ望月を横目で見ながら、俺は天音の様子が気になっていた。
さっきから全然喋らない。
いや、もともと俺たちの会話には入ってこないけれど、いつもの雰囲気と明らかに違う。
どうかしたのか聞きたいけれど、この高揚した空気を壊してしまいそうな気がして、俺は何も言い出せなかった。
分かれ際に、天音がチラッと俺を見る。
思わず引き留めようかと思った瞬間、奴は何事も無かったかのように緩く笑って逆方向の駅のホームに消えて行った。
まあいいか。
明日、ふたりきりになったときにゆっくり聞こう。
俺は電車に揺られながら、窓に映し出された自分の顔をぼんやりと眺め続けた。
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