ピアニッシモ・第二楽章

第1話

空が高くなり始めた10月上旬。

放課後の教室は11月の学園祭に向けて、クラスの催し物の準備に色めきだっていた。

学園祭では、3年生が毎年恒例の劇を披露することが決まっている。

もはや伝統となったこの舞台は、第一回目の公演から同じ台本を受け継いできた。

解釈の仕方や演出法によって、毎年全く雰囲気の違う劇(ストーリー)が出来上がる。

その年のカラーが浮き彫りになるそれが、この学校の学園祭の目玉のひとつとなっていた。

3年生はその舞台にすべてをかけ、1、2年生はクラス単位で催し物をするのだ。

各クラス占いの館だったり、ミニシアターだったりと趣向を凝らしているようだ。俺たちのクラスはカフェを開くことにしている。

美術に長けている者は看板を作り、スタイリストを目指している者は、制服をカフェらしくアレンジしたデッサンを描いている。

各々得意な分野を生かしてクラスを盛り上げようとしているのだ。

俺は天音や望月と一緒に、祭りの当日ひたすらコーヒーを淹れる担当になった。

今日も準備を進めているクラスメイトを1時間ほど手伝った後、3人揃って教室を抜け出してきた。

遡ること6月、俺は正式に合唱団HARUKAの団員になった。

シンジさんのカフェ『蒼空(そら)』を初めて訪ねた時すでに固まりつつあった入団意志は、その翌日見学に行って揺るぎないものとなり、練習終了後舟橋さんにその意思を伝えた。

一緒に行った天音も、こんな耳だけど合唱団とは交流を持ちたいと話をした。


「え、え、ホントに?やった……っ」


隣で聞いていた望月が心底嬉しそうにはしゃいだのを見て、俺は照れくさい気持ちで頭を掻いた。

とはいえ、すんなり入団という訳にはいかなかった。

入団するにはテストがあり、初心者の俺はHARUKAのレベルに追いつけるほどの素質があるか見定められることとなった。

歌なんて本気で歌ったことはなく、テストなんか中学の時の音楽の授業以来だ。

舟橋さんをはじめ、各パートリーダーとヴォイストレーナーの計6名が目の前に並ぶ中、緊張のあまり声も震えそうになる。

もちろん発声方法も全くの無知だった俺だが、望月が見込んでくれた通り声の質は良かったらしい。

ピアノから音を拾うテストでは、音感も良さそうだと判断された。

テストから一週間という時間をかけて審査され、俺は無事入団の許可を貰うことができた。

団員として所属は出来ないけど、と話していた天音にもテストはあった。

天音は、なぜ自分まで受ける必要があるのかと不思議に思いながらも、言われた通りの課題をこなした。


「岡崎君、君が合唱団員として在籍するのは難しい。でも、やっぱりHARUKAの仲間になってほしいと満場一致したんだ。君の声、トレーニングすればもっともっと伸びると思うよ」


どうやら天音を、何とかみんなと一緒に歌えるようにできないかと何度も協議を繰り返したようなのだ。

しかしやはり、その声質と音感の良さを以ってしても聴覚障害の壁は高く、どのパートに所属するのも無理があると判断された。


「全体練習の時は、みんなの歌を聞いていてほしいし、パート練習の時はヴォイストレーナーの山崎に付いて発声を学ぶといいよ」

「えっ、そんな個別のトレーニングまで?」


ホールの片隅で歌に包まれているだけでいいと思っていた天音は、思いがけない舟橋さんからの提案に、申し訳なさそうな微妙な表情を見せた。


「君は歌いたいんだろう?だったら、聴いているだけじゃダメだ。ここに来るなら、本当に歌えるようになってもらいたい」

「舟橋さん……」


ほんの少し考え込んだ後、天音は小さく呟くように、よろしくお願いしますと頭を下げた。


「俺、ただほんの少しこの場所に居させてもらえたら、くらいにしか思ってなかったのに。そんな特別な待遇をしてもらったら、みんなモヤモヤするんじゃないかな」


入団許可を貰った帰り道、天音は俺や望月に抱えていた不安を吐いた。

合唱団に在籍できる喜びよりも、他人の気持ちが気がかりなコイツの戸惑いに、俺も望月も切なく胸が締め付けられた。


「大丈夫だよ、岡崎。そういうこともちゃんと考慮された上での判断だと思うよ。俺はHARUKAに入ってまだ3ヶ月しか経ってないけど、みんなホントに温かい人ばかりだぜ」


うん、分かってるけど……、と、天音は伏し目がちになる。


「天音、今は純粋に喜んでいいんじゃね?せっかくこうして団員になれたんだし。やりたいことの一歩が踏み出せたんだ。な、俺は嬉しいけどな」


俺の言葉に、天音はホッとしたように顔を上げた。


「そうだな、受け入れてもらえたことを喜んでもいいんだよな」


コイツなりに、この場所に身を置くことの難しさを思案していたのかもしれない。

天音のことばかり言っていられない。

俺だって、素質があるというだけで、これから皆の足を引っ張らないようにするためには、相当なトレーニングが必要となるだろう。


「一緒に頑張ろうぜ。俺が見込んだ奴らが入団してくれて、なんだか俺、ちょっと自信ついた」


望月が照れながら頭を掻いた。


「俺たちホントに初心者だから、望月に教えてもらうことたくさんあると思うんだ。よろしく頼むな」

「ああ、俺なんかじゃ頼りないけどさ。とりあえず筋トレ始めるといいぜ。腹筋とか背筋とか鍛えないと、声がブレるから」


望月は毎日朝早くに起きて、ジョギングと筋トレを欠かさないそうだ。

体育授業の着替えで見た望月の身体は、制服の上からは想像できないほど逞しく筋肉質だった。

そういうことだったのか。

合唱団に通うだけでも生活が劇的に変わるが、これは思った以上に大変かもしれない。

でも本当にやりたくて始めたことだから、弱音は吐きたくない。

早速望月を見習って、30分ほど早く起きてトレーニングを始めようと俺は決心した。

それから俺は朝5時半に起きて、雨の日以外は近所の公園周りをジョギングし、夜寝る前には筋トレを欠かさないようになった。

週に4日の練習は、やはり通うだけで大変だ。

しかし練習前の空き時間を勉強に充てられるのは良かった。

宿題はもちろん、授業で分からなかったところを互いに教えあったりすることで理解度も深まった。

天音も、聞き取れなかった単語をひとりで探るよりも、俺たちに教えてもらえて楽になったと話してくれた。

ほぼ毎日ファミレスに通って飲食代も正直かなり嵩んだが、ありがたいことに親はいつも軽食を取れるだけの金額を持たせてくれた。

本当なら夕食自体をそこで済ませれば楽だが、そこまで親に負担をかけるわけにはいかない。

帰宅は10時近くになるけれど、家で食べることにしている。

今日もいつも通り駅前雑居ビル2階のファミレスで、食事の後に勉強のノートを広げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る