第12話

「真治さん、今日は友達連れてきたんだ」


階段を上がりながら、天音は嬉しそうに笑う。

シンジさん?ずいぶん親しいんだな。


「栗生(くりゅう)のところに行ってきたのか?」

「うん、そう」


シンジさんは俺をチラッと見た。

この人の話し方、天音と似てる。

ほぼ一定の音階でゆっくり優しく話しかけてる。

天音の耳の事、よく分かってるんだ。


「そこの彼も一緒に?」

「うん、そうだよ」


ほんの少し、天音は照れたように答えた。

シンジさんは改めて俺をゆっくりと見つめる。

なんだか品定めされているみたいだ。

俺はなんとなく居心地の悪いような気分で、天音の座ったカウンターの隣に腰かけた。


「真治さん、彼が松坂貫」


急に紹介されて、俺は戸惑いながらも頭を下げた。


「ああ、君が松坂君か。話、よく聞いてるよ」


話?

何の?

ひどく訝しげな目で天音を見ていたのだろう。

シンジさんがクックッと笑った。


「天音、オマエ彼に何も言わずに連れてきたんだろ?ずいぶん不審がられているぞ?」

「あ……っ」


天音は口元を押えて、真横に座っている俺を見た。


「ゆっくりしていけ。今、コーヒー淹れてやるから」


そう言いながら、シンジさんはサイフォンをセットし始めた。


「ゴメン、貫」

「いや、全然いいけど……、どういう事?」


天音は小さく頭を掻いて、どこから話せばいいかな、と呟いた。


「さっきの曼陀羅。どうだった?」

「あ?うん、すごく不思議な空間だったな。瞑想してる気分だった」


ホッとしたような笑顔で頷いている。


「俺が中学に上がって辛かった時に、ネットの或るサイトに悩みを投稿したことがあってさ。それにメッセージをくれたのが、あの家の人なんだ。栗生さんっていうんだけどね」

「ネット?」

「何の力にもなれないけど、って言いながら、あの場所に招いてくれたんだ」


そういういきさつだったのか。

そうでもなければ、あんな場所を見つけられるはずはないよな。


「ここも、その時に一緒に訪ねるようにって書いてあったんだ」


天音が栗生さんという曼陀羅の家の持ち主と、シンジさんと交流し始めたのは2年半前。

中学に入って半年ほどが過ぎた頃だという。

それ以来、週に一度は必ず足を運んでいるそうだ。


「俺、栗生さんに会ったことはないんだ。メッセージはその一度きりで、その後のコンタクトはさっきみたいな手紙だけ。栗生さんから話があるときは、真治さんにことづけてくれるんだ」

「オマエ、それちょっとおかしくね?!」


俺は思わず声を荒げた。

ネットを通じての事件も多いのだ。

一度きりのやりとりで信用して、初めての場所を訪ねたというのか。

なんて無防備なんだ。


「それがどんなに危険なコトか分かって……」


言い掛けて、俺はハッとした。

シンジさん本人を目の前にして、非難めいたことは言うべきじゃない。

しかし俺の言いたいことを、天音も察したようだ。


「あの頃は押しつぶされそうな毎日だったから、そんなこと考える余裕もなかったな」


天音が遠い目をする。

それでも俺はきっと、咎めるような目をしていたのだろう。

天音は困ったような笑顔で俺を見返した。


「栗生さんと真治さんは長年の友達なんだって。知ってるのはそれだけ。確かに俺は、栗生さんがどんな人かよく知らない。でも知らなきゃならないかな。俺は別にいいって思う。実際俺は、あそこに行ってずいぶん救われた。あの中で一人きりで寝ころんでると、ささくれだった自分を鎮めることが出来たから」


昨日の話で、天音の過去が想像以上に壮絶だったことは分かっていた。

こんな風に、何者か分からない人にまで縋らなければ壊れてしまいそうなほど辛かったのか。

俺は何も言えなくなって、思わず目を逸らした。

視線の先に、シンジさんがサイフォンのコーヒーを攪拌しているのが見えた。


「一昨日も学校の帰りにあの場所に行って、自分のやりたいことが見つかったって手紙を入れてさ。その足でここに来て、真治さんにも歌を歌いたいんだって話をしたんだ」


俺は天音の言葉を聞きながら、シンジさんの手元を眺める。

優しい手つきだな……。

シンジさんにはきっと、飲んでくれる人を慈しむ想いがあるんだ。

天音は人の心に敏感な奴だから、きっとそんな彼に心を開いてきたのだろう。


「はい、お待たせ。松坂君の好みは分からないから、とりあえずブラックで。天音はミルクたっぷりにしておいたぞ」


カウンターの向こうから、シンジさんがマグカップでコーヒーを手渡してきた。


「ありがとうございます」


緩やかな湯気の立ち上ったコーヒーをそっと口に運ぶ。

甘い香りが鼻腔を通り抜けた。

やっぱり美味い。

自分もサイフォンを使うから、淹れる人によって味がずいぶん変わることは知っている。

さっきから見ていて、シンジさんのコーヒーは、間違いなく美味いだろうと思っていた。

天音は両手でカップを包み込むように持ちながら、穏やかな表情でコーヒーを飲んでいる。

天音はここでサイフォンのコーヒーを何度も飲んでいたんだな。

それでも、俺が淹れたコーヒーを美味いって言ってくれたっけ。

改めて店内を見渡す。

さっきの曼陀羅と、このカフェ。

見た目は全然違うのに、雰囲気はなぜかとてもよく似ている。

ゆっくりと時間が流れていくような感覚。

どことなくホッとする空間。

天音が足繁く通うのがわかるような気がした。 

ふと視線を感じて顔を上げると、シンジさんが柔らかな眼差しで俺たちを見つめている。

歳はいくつくらいだろうか。

親と大して変わらないような気がする。

45歳前後かな。


「貫、今日付き合ってくれて、ありがとう」

「俺も楽しかったよ」


コーヒーを飲み終えて、席を立つ。

シンジさんがカウンターからフロアに出てきた。


「天音、栗生からの伝言だ」


立ち並ぶと、シンジさんはかなり背が高いことに気付く。

185cmほどだろうか。

天音はシンジさんを見上げた。


「待っている、って言ってたよ」

「え?待っているって、何を?」


シンジさんはそれには答えず、天音の頭を優しく撫でた。


「天音の歌、早く聴いてみたいな」


その言葉に、奴はニコッと笑った。

その笑顔に、天井からの光がまばゆく降りそそぐ。


「歌いたい歌、あるんだ。貫と一緒に歌おうって」

「松坂君と?」


シンジさんは俺に視線を移す。


「あ……、俺が持っていた合唱曲の譜面を見て、カルテットしようって話してたんです。俺……、俺もやっと自分のやりたいことに出会えたような気がして……」


なぜかしどろもどろになってしまい、俺は恥ずかしくなってうつむいた。


「君も、ずっと探していたんだね」


頭にふわりと温かいものが触れる。

それがシンジさんの掌だということに気がついて、思わず涙が滲んだ。

こんな風に、誰かに頭を撫でてもらうことなんて無かったんだ。


「俺、合唱団に入ろうと思っています。そこで、もっといろんな歌に触れたいです」

「貫、入団する気になったの?」


天音が驚いた声を上げた。

俺は顔を上げて奴を見る。


「まあ、明日もう一回見学してからな。でも、オマエと歌える歌、いっぱい増やしていきたいって思っ……」


言葉の途中で、俺は息を呑んだ。

なぜなら、急に天音が力いっぱい抱き着いてきたからだ。

不意打ちのように抱きしめられて、俺は動揺のあまり言葉を続けることができない。


「貫、ありがとう、ありがとう。俺、嬉しいよ」

「天音……」

「オマエ、自信ないんだって言ってたよな?それでも、俺と一緒に頑張ろうって思ってくれたんだろ?」


そうだよ。

みんなと上手くやれるかどうかなんていう不安よりも、オマエと一緒に歌いたいって気持ちの方が強くなっちまったんだよ。

言葉にして伝えたいのに、思うように声が出ない。

戸惑いながらも、俺は胸の鼓動が耳元までせり上がってきているのを感じていた。


「松坂君、困ってるぞ?」


仕方ないなあと笑いながら、シンジさんが天音の肩を叩く。


「あ、ゴメン……」


奴はハッとしたように俺の顔を覗き込む。

俺たちはお互いに、顔を赤く染めながら身体を離した。

俺は息を整えて改めて天音に向き合う。


「こっちこそ、ありがとうな。っていうか、俺、オマエのやりたい事にちゃっかり乗っかっちまったよな」


眩しそうに笑いながら、天音は首を横に振る。


「違うよ、貫。オマエが俺を歌わせてくれるんだ。オマエが、やりたい事を教えてくれたんだ。だからオマエの方がエライ!」


ん……?

なんかその表現おかしくねぇ?

三人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。

シンジさんが両手で俺たち二人の背中をポンポンと叩く。


「天音も松坂君も、頑張れよ」


俺たちはシンジさんを見上げながら、力強く頷いた。

何故だろう。

彼は初対面なのに、なぜか俺の事もよく分かってくれるような気がする。

こんなに包容力のある人に出会ったのは初めてだ。


「松坂君、君も良かったらこれからもここに来るといい。栗生にも話しておくから」


視界の端っこに、天音が嬉しそうに頷いているのが見えた。


『それがどんなに危険なコトか分かってるのか?どんな人かわからない相手を簡単に信用してしまうなんて、そんなんで大丈夫かよ』


さっき天音に言おうとしていたことだ。

なのに今、そんなことどうでもいいような気になっていた。

シンジさんの温かい掌が俺の心を柔らかく満たしてくれた。

それが、今の真実だ。

「知らなきゃならないかな」と言った天音の気持ちがよくわかる。


「ありがとうございます。ぜひ、また来たいです」


 俺は深々と頭を下げた。

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