第10話
「天音、腹減らねえ?そろそろパン、食う?」
「ん、実はちょっと前から気になってた」
俺たちは改めて見合って、ハハッと笑いあった。
再びリビングダイニングに降りて、俺は大きく膨らんだ袋から次々にパンを大皿に盛り付けた。
18個という数は実際盛り付けてみると、とても二人で食べる量には見えない。
「すげーな。俺、家でこんな量のパン見るの、初めてだ」
「そうなんだ?うちではアタリマエだけど」
「…………」
岡崎家の食生活がどんなものか、陰からそっと覗いてみたい気になった。
天音以外の家族もよく食べるのだろうか。
「天音、何飲む?コーヒーで良ければ淹れるし、あとは炭酸水かグレープジュースか……」
「俺、さっきのコーヒー飲みたい」
気に入ってくれたんだ。
なんだかすごく嬉しい。
俺はいそいそとサイフォンの準備をした。
「オマエ、カフェオレ好きなんだよな?濃く作って牛乳入れようか」
「ん、お願い」
あらかじめ細挽きのコーヒーをセットする。
「あ、さっきのコーヒーが良かったんだっけ。豆、替えちまった」
天音がカウンター越しに覗いてくる。
「いいよ、貫が淹れてくれるなら何でも」
柔らかな笑顔でこっちを見ている。
さっきとちょっと雰囲気が変わった?
俺はサイフォンをセットすることに気を取られている振りをしながら、チラチラと天音の顔を見た。
どこかスッキリしたような感じがするのは、今までのことをカミングアウトしたからなのか。
アルコールランプを入れて、湯が沸くのを待つ。
天音も黙ってその様子を眺めていた。
ゆるりと時間が流れていく。
ふと俺は、この静かな空間の音でさえ俺と天音の世界は違うのだろうと思った。
耳が拾える音に限りがある、というのがやはり想像できない。
「天音」
「ん?」
わざと低く出した声にも、天音は返事をする。
俺の声は全部オマエに届くのか?
他の人と俺の声は、そんなに大して違いは無いと思う。
なのにどうして天音の耳は、俺の声を捉えてくれるのだろう。
「俺の声、聴こえない事無いの?」
「多分。何でだろうね、貫の声はどんなトーンでも大丈夫な気がする。自分の声ですら、聴こえない部分があるのにな」
たまたま俺の声がそうだった、というだけの話なんだ。
なのに俺は、天音に選ばれた人間のような気持ちになってしまう。
天音にとって特別な自分で在りたいと、いつの間にか思っていた。
セットした漏斗に湯が駆け上がる。
俺は苦みが出過ぎないよう、ゆっくりと竹ベラを動かして攪拌する。
漏斗の中に細挽きの粉が渦巻いて、見るからに濃いコーヒーが抽出された。
「砂糖入れる?」
「牛乳だけでいいや」
向こう側が全く見えないほど真っ黒なフラスコから、大きめのマグカップに半分ほどコーヒーを注ぐ。
そこへ電子レンジで軽く温めた牛乳を入れた。
「お待たせ。パン目の前にして、お預け状態だったな」
俺はフフッと笑いながら、カウンター越しにカップを天音に手渡した。
「早く食おうぜ?俺、一番最初に食う奴、もう決めてるんだ!」
天音は無邪気に笑いながら、そそくさとテーブルに着いた。
どれを最初に食べるつもりだろうと見ていると、天音は俺が好きだと言ったカレーパンを半分にちぎって寄越してきた。
「コレ、好きなんだろ?貫が好きな奴、一番最初に一緒に食いたかった」
言うなり、バクッと具のたっぷり詰まった真ん中にかぶりつく。
「んっ!」
驚いたように目を見開いて、天音は口を動かす。
唇に付いたパン屑を舌で舐めとって、キラキラとした目で俺を見た。
「美味いよ、貫!あー、オマエに寄越さなければよかった!」
え、さっきと言ってくることが違うぞ?
一緒に食いたかった、というのは建前か?
天音はものすごい速さで自分の分を食べつくす。
呆気に取られてまだ一口もかじっていない俺のカレーパンに、ヤツの視線を痛いほど感じて、俺は黙って手元のパンを差し出した。
「あ、ありがとう。ワリィな」
受け取るのかよ、オマエ。
食欲には勝てないんだな。
あまりに素直な行動に、俺は可笑しくなって思いっきり笑った。
満面の笑みでパンを頬張っている天音は、次のパンを選んでいる。
「あー、迷うな。貫、オマエどれ食いたい?」
実は、さっき皿に盛りつけた時から狙っていた奴がある。
それは、自家製のカスタードクリームがたっぷり入ったアップルデニッシュだ。
テレビで紹介されたことがあって瞬く間に大人気商品になってしまい、いつも売り切れで買えなかったものだ。
今日は土曜日だから多めに焼いたのかもしれない。
「コレ。ずいぶん前だけど、テレビに出たことがあるんだ。いつも売り切れててさ、まだ食ったことないんだ」
「じゃあ今度こそ、ちゃんと半分にしよう」
「ホントかよ、美味かったらまた取り上げちまうつもりだろ?」
俺はクックと笑いながらからかう。
天音もつられたように笑う。
「カレーパンは何度も食ったことあるんだろ?さすがに食ったことないのは、な」
俺はナイフを持ってきて、慎重にデニッシュを半分に分けた。
断面に、濃い黄色のクリームと黄金色の林檎コンポートがのぞく。
天音が手を伸ばしてきて、早速齧り始めた。
やっぱり真ん中の具の多いところからかぶりついている。
どうやら一番美味そうなところから食べる癖があるようだ。
「あーっ、これもいい!くぅーっ」
クシャリと目を閉じて、天音は身悶えた。
俺も慌ててかじりつく。
また物欲しそうに見つめられてはたまらない。
表面のパリッという音と共に、カスタードとコンポートの優しい甘さがトロリと口の中に広がった。
「おーっ、確かに美味い!さすがテレビが入るだけあるな」
「だろ?だろ?な、美味いよな!」
まるで自分の手柄のように興奮気味に話しかけてくる天音は、学校の中のイメージとかなり違う。
学校でもこんな風に笑えたら、きっともっと天音に近づきたいと思う人間がたくさんいるだろうな。
そうしたらコイツも寂しさを感じずにいられるだろうに。
初めて食べたアップルデニッシュは、きっと一人で食べるよりも格段に美味かったに違いない。
実際、次に食べたクリームパンだっていつもと変わらないはずなのに、別物みたいに美味かったんだ。
天音は次々にパンを頬張る。
あれよあれよ、といううちに、あんなに山盛りだったパンはすっかり二人の腹に納まった。
ほとんどは天音の腹の中だが。
満ち足りた笑顔でカフェオレをゆっくりと口に運ぶ天音は、今しがた猛烈な勢いで貪り食ったとは思えないほどの穏やかさだ。
このギャップを初めてファミレスで見た時は相当驚いたが、今はなぜか、天音はこうでなきゃ、と思ってしまう。
「カフェオレも美味いなあ。貫、今すぐカフェ開けるぜ?」
両手でマグカップを包み込んで、天音は嬉しそうに笑う。
今日来てもらって本当に良かった。
学校では見ることの無い天音にたくさん会えた。
「貫、明日なんだけど」
あ、そうか。
明日も会えるって言われてたんだ。
俺は無言のままうなずいて、カフェオレを飲み続けた。
「今日のお返しに俺んちに招くのが礼儀だろうけど、ゴメン、うちはちょっと都合が悪いんだ。だから、俺の好きな場所に付き合ってくれない?」
「え、オマエの好きな場所ってどこ?」
天音はフフッと笑って、オマエも好きになってくれるといいんだけど、と質問の答えをはぐらかした。
「明日、1時に学校の駅前で待ってる。」
そう言うと、天音は「そろそろ帰る」と言いながら腰を上げた。
時計を見ると、いつのまにかもう5時を回っていた。
俺も駅まで送るから、と一緒に玄関を出る。
「今日はアリガトな。本当に楽しかった」
駅の改札口の手前で、天音は俺を振り返ってはにかんだ。
「気ぃつけて帰れよ」
軽く手を振りながら答える。
天音もさっと手を振って、改札の中に入っていった。
俺はその後姿を見つめながら、こんな風に過ごせる相手に出会えて本当に良かったと心の底から思っていた。
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