第5話

「舟橋さん、この二人が昨日お話しした見学者です」


練習場所のビルのエントランスで、俺たちは早速合唱団員の一人と顔を合わせた。

彼が手にしているファイルには、「合唱団HARUKA」と書かれてある。

これがこの団体の名称なのだろう。

望月が舟橋さんと呼んだ人は団のコンダクター兼・総括者とのことだ。

親父くらいの年だろうか、髪に所々白いものが見える。


「入ってすぐに友達を連れてきてくれるなんて、嬉しいなあ」


たれ目で優しい顔つきの舟橋さんは、深みのあるバリトンの声色で望月に応えた。


「へへっ、高校入学してすぐに目ぇ付けてた奴なんです」


チラッと俺を見ながら、照れたように望月は笑った。

入学した時から?

俺に?

そんな素振り、見せたことなかったよなと思いながら、俺は望月を見返した。


「こっちが松坂。そして、こっちが岡崎です」


順番に紹介されて、俺たちは慌てて頭を下げた。

望月さんは朗らかに笑った。


「ああ、全然かしこまらなくていいから。気軽に見てってよ」


そう言いながら、練習場になっているホールへの扉を開ける。

ヴォイストレーニングをしている団員の声が一斉に溢れ出して、エントランスに響き渡った。

何人いるのか?と思うほど、圧倒的な声量。

俺はビックリしながら、おずおずと望月の後をついていった。

岡崎も中を伺うようにソロソロと入っていく。


「あ、モッチ、おはよう!」


おはよう?

もう夜なのに?

挨拶ひとつ取っても、初めてのことばかりだ。


「おはようございます、田所さん。調子、良さそうですね」


中には22人ほどの団員が、思い思いのスタイルで練習前の発声をしていた。

望月をモッチと呼んだ田所さんは、手前に設えたグランドピアノの前に居た。

一昨日から始まった新しい曲を復習しているのだと話している。

軽く会話を交わしながら俺たちを紹介してくれたあと、望月はホールの奥にあるロッカールームに案内した。


「ここ、俺のロッカー。オマエたちも荷物入れて。あ、貴重品は自分管理な」


個人のロッカーまであるなんて、ものすごく本格的だ。

やっぱり俺はひどく自分が場違いな気がした。


「望月、俺さ……」

「あ、驚いた?俺もジュニアからこっちに来たときは、正直凄すぎてやってけねぇって思ったんだよな。でも、ここの人たちホント気さくだよ。俺、モッチなんて呼ばれてるし」

「いや、その、俺、歌なんてあまり歌ったことないし」

「ははっ、高校から始める奴なんて、みんなそんな感じさ」


望月の中では、俺はもう入団決定の勢いだ。

成り行きと言え、話がどんどん進んでいるような気がする。

俺は岡崎に困ったような笑顔を見せた。

岡崎も少々困惑気味だ。

会話が早すぎて理解しきれていないのかもしれない。

先にホールに出ていった望月を見送って、俺は岡崎に耳打ちする。


「なんか、単純に見に来ただけって言えなくなっちまいそうな雰囲気だな」


岡崎もそう思っていたのか、小さく何度も頷いている。


「俺も、来ちゃって良かったのか?って思ってたよ。っていうか、特に俺」 


さっきから確かに岡崎は所在なさげだ。


「そんなことねぇよ、俺だって同じだ。まあ、開き直って楽しんだ方がよさそうだな」


俺たちは見合って、二人同時に肩をすくめた。

ホール後方の隅で、団員たちの様子を眺める。

7時10分前になると、会社帰りの人たちが次々とホールに飛び込んできた。


「新見さん、今日残業だから休みだって!」

「クラッチは新プロジェクトの飲み会だってよ!」 


社会人らしい会話が次々に飛び交っている。

在籍団員は何名なのか聞いていないけど、今の段階で30人ほど集まってきている。

年齢は本当に様々だ。

そんな中で、望月は臆することなく堂々と周りに溶け込んでいる。

奴のしっかりした性格は、こういう場に身を置いているからなのかもしれない。


「誘っときながら放ったらかしにして、ホントにゴメンな。昨日練習休みだったから、いろいろ打ち合わせなんかもあって。あ、岡崎、コレ楽譜。一応松坂にも」


練習が始まる直前に望月はササッと俺たちに駆け寄ってきて謝ると、とりあえずそこで見ててと言い残して団員の中に入っていった。

気が付くと、ホール前方に舟橋さんが立っている。


「みなさん、体調はいいですか?そろそろ新年度の疲れが出てくる頃ですね」


声を張り上げているわけではないのに、俺たちが立っているホールの後ろまで声が届く。


「今日はモッチが学校の友達を連れてきてくれました。みなさん、ふたりが気持ちよくなるような音楽をお願いします」


舟橋さんはそう言いながら、後ろでたたずんでいる俺たちの方を見た。

団員たちが一斉に振り向く。


「よ、よろしくお願いします」


俺は慌ててそれだけ言うと、岡崎と一緒に頭を下げた。

みんな笑顔でこちらを見て、ゆっくりしてってね、などと話しかけてくれる。

とても温かい雰囲気だ。

チラッと岡崎を見遣ると、奴も少しホッとしたような表情をしていた。


「じゃあ、一昨日のおさらいから」


いよいよ練習が始まる。

舟橋さんがタクトを振ると、グランドピアノが前奏を始めた。

俺たちも手元の楽譜に目を落とした。

アヴェ・ヴェルム・コルプス。

モーツァルト作曲とある。

物静かなピアノから、囁くような音で合唱が始まる。

モーツァルトなんて正直名前くらいしか知らないし、歌は外国語でチンプンカンプンだ。

教会なんかでよく聴くヤツだな。

讃美歌っていうんだっけ?こういうの。

隣の岡崎は、食い入るように楽譜を見ている。

今流れている音楽を、必死にたどっているようだ。

とても話しかけられる雰囲気ではなく、俺も楽譜を眺めながら音楽に聞き入った。

ひと通り曲を流した後、各々分かれてパート練習に入った。

俺たちは望月のいるテノールの様子を近くで眺めた。


「なあ、岡崎、オマエこの曲全部聴き取れてる?」


曲の合間を見計らって、話しかける。

岡崎は首を振って、聴こえない部分もあるよ、やっぱり、と答えた。


「そっか」

「あ、でも綺麗な曲だよな。コレ、ラテン語だろ?」


へぇ……。ラテン語なんか初めて聴いたぞ?

岡崎、分かるのかよ。

ホント物知りだな。

俺はマジマジと岡崎の横顔を眺めた。

人差し指の節を軽く噛みながら、楽譜にのめり込んでいる。

30分ほどのパート練習が終わって、再び全体の合わせに入った。

最初に聞いた時より格段に良くなったのが俺でも分かる。

それでも舟橋さんは何度も音楽を止めては、ここはもっとクレッシェンドを効かせて、などと指導を入れていく。

今度は男声側の脇に立った俺たちには、団員の表情もよく見える。

みんな真剣なまなざしだ。

望月は、譜面に指導の内容を書き込んでいるらしい。

舟橋さんの言葉を受け取っては赤ペンを走らせている。

みんな舟橋さんの要求に応えて、どんどん音楽が完成されていく。

その過程を間近で見て、俺は胸が熱くなった。


「よーし、今日はこれ位にして、明日またですね。最後に一回通しましょうか」


気が付けば、もう8時50分だ。

一曲通せば練習終了時間の9時にちょうどいい。

舟橋さんがタクトを振り始める。

何度も繰り返した通り、始まりは静かな出だしだ。

しかし、今までとは決定的に違うことがあった。

陽だまりのようなソプラノの声。

今までは聴こえなかった声が、どこからか響いてくる。

団員も歌いながらチラチラと周りを見回しだした。

舟橋さんも戸惑ったような表情でタクトを振っている。

合唱を乱しているわけではないけれど、まるでソリストが一人混じったかのようだ。

それにしても、こんな声を聴くのは初めてだ。

その場の空気をフワリと包み込むように柔らかい、羽毛のような声。

それなのに音の不安定さは一切ない。

聴いているだけで心が温かく満たされていくようだ。

舟橋さんはそっとタクトを止めた。

それと同時に合唱も止まる。

しかし、その不思議な声はまだ続いている。

団員はざわめきながら、こっちを見た。

その声は、どうやら俺の真横から聴こえているらしい。


「岡崎……、岡崎っ」


肘で軽く奴の腕を小突くと、楽譜に夢中になっていた岡崎はハッとして慌てて口を噤(つぐ)んだ。

同時にその不思議な声は、この空間から消えてしまった。

…………えっ、えぇーっ?!

やっぱり今の、岡崎の声なんだ!


「何、オマエ、歌えるの?」


驚きのあまり、俺は声が上ずった。

望月が駆け寄ってくる。


「岡崎、すごい、すごいよ、オマエの声!」


舟橋さんも驚いた顔で近づいてくる。


「君、岡崎くんだっけ。確か聴こえる音域が狭いのは君だよね?」

「あ……っと、音域……ですか?そうです」

「今の音階、完璧だったよ。君が歌ったのはソプラノなのに。発音も素晴らしい」


岡崎は戸惑いながら俺を見る。


「音、完璧だって。ソプラノを歌ったのに、って」

「ああ、主旋律なら上手く想像できたから……」


えっ、想像の音で歌ったっていうのか!

ってことは、自分の歌声も全部聴こえてるわけじゃないんだ……。

それで音階が完璧って、すごすぎる。

何より、その声の質だ。

多分奴は小声で歌っていたつもりなんだろう。

確かに微かに聴こえる程度だった。

しかしあの合唱の中で、ひときわ際立って耳に届いたのは岡崎の声だ。

それほど他の人たちとは明らかに違っていた。

俺は真横にいたから余計にそうだったのかもしれないけど、実際、舟橋さんも望月も確実に奴の声を捉えていだのだから。


「岡崎、後でゆっくり話そうな、なっ」


望月は興奮した面持ちで、団員の中に戻っていく。

舟橋さんも満足そうに頷いて、元の位置に帰っていった。

俺は呆気に取られながら、岡崎の横顔から目を離せずにいた。

いつもの話し声がベースなのは確かだ。

だけど抑揚のない声に音階が付くと、こんなにも違うものなのか。

まるで岡崎の声じゃないみたいだった。

そう言えば、コイツの名前って確か……。


「あまね……」

「え、何だよ、急に名前……」

「って、どんな漢字書くんだったっけ?」

「天地の天に、音だよ。忘れたのかよ?」


天音。

まさに名は体を表す、だよ。

オマエのその声、この世のものじゃない天(そら)の音のようだ。

俺は胸の中で岡崎の名前を繰り返した。

あまね、アマネ、天音……。

そっと唇にその名前を乗せる。

途端にそれは、トロリとした液体のように俺の喉元を通り過ぎて、身体の芯に微かな痺れを呼び覚ました。



 

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