第2話

その話が聞けたのは、翌日の授業がすべて終わった放課後のことだった。

岡崎は、わざわざ人気(ひとけ)のない、校舎の一番奥にある階段の踊り場に俺を連れ出した。

ずいぶん物々しいなと思いながらも、俺は岡崎の後をついていった。


「で、なんでこんな話し方かってことだよな?」


やっぱり何度聞いても衝撃的だ。

しかも、わざとではなく、もうしっかりこの話し方が定着しているという感じだ。

俺は黙ったまま、小さく云々と頷いた。


「俺の耳、実はよく聴こえないんだ」


ん?

どんな理由か全く予想が付かなかったけれど、そういう話だとは思わなかった。


「聴こえない、というのはちょっと違うか。或る一定の音域は普通に聴こえるんだよ。だけど、それ以上やそれ以下の音域はほとんど聴こえなくて」

「ちょっと待て、そういうの初めて聞いたから、よく分かんねえ」

「説明するのが難しいな。簡単に言うとさ。人間の感知できる音の幅って知ってるか?俺の場合はその幅が極端に狭いんだ」

「…………」

「んー、分かんないか。そうだなあ……。例えば、松坂はピアノの音は一番下の鍵盤から上の鍵盤すべての音が聴こえるだろ?多分普通の人間はみんなそうだと思うんだよ。でも、俺は真ん中の3オクターブ分くらいしか聴こえないんだ、って言ったら分かるかな」

「え、下の音と上の音は全く聞こえないってこと?」

「ほとんどな。自分の聴こえる音域を外れたら、もう駄目だ」


すべての音に対して聞こえが悪いというのとは、まったく違うようだ。

こういうのも難聴というのだろうか。

俺には岡崎の音の世界がいまいち想像できない。

可聴音域が3オクターブ分くらいしかないってことは、音楽とか聴いても所々音が途切れてしまうということなんだろうか。


「人と話をしていても、人間の声って意外に音域が広いみたいでさ。読唇もするけれど、いつも曖昧な言葉を何とかつなぎ合わせて会話してんだ」


それはかなりしんどい作業なんじゃないか?

普通に聴こえる俺だって、気を抜いて話をすれば理解できないこともあるのに、そんな状態じゃあ人と話をするときに気を抜くことなんか出来やしないじゃないか。


「岡崎、そんな大変な耳で、よくこの学校に来たよな」

「ははっ、ホントにオマエは正直者だよな」


岡崎は少し呆れたような表情で俺を見た。

俺はハッとした。

今のはもしかして、失礼な発言だっただろうか。


「俺のこの耳じゃあ、特別支援学校に行ける資格は取れなかったんだ。幅は狭いけどしっかり聴こえる部分があるし、日常生活も一応普通にこなしてるから」


しまった……。

そういう意味で捉えられたんだ。

俺は単純に大変だなと思っただけなのに、言い方が良くなかったらしい。

やっぱり俺はそうだ。

自分の思ったことをそのまま言った挙句、伝え方を間違って相手に不快な思いをさせてしまう。

やっちまったあとで後悔するけれど一向にそれが直せないあたり、自分の性格の悪さを感じて、自己嫌悪に唇を噛んだ。


「大丈夫だ、松坂。俺、ちっとも気にしてないし、むしろこうしてハッキリ聞いてもらった方がこっちもスッキリするよ」


俺の様子を見て、岡崎も気の毒に思ったんだろう。


「わりぃな、ホント。俺、デリカシー無くて」


昨日もこのセリフを吐いたよな。

まったく学習能力無いな……。

俺はますます落ち込んだ。


「でさ、本題の俺のしゃべり方だけど。一番聞きやすい自分の声ってのが、この音で一定に話す声だって気付いてさ。それ以来、こんなふうにしてるんだ」


そうか、自分の声も限られた音域でしか聴けないのか。


「俺、松坂の声聞いて、びっくりしたよ」


突然俺に話が振られて、一体何のことだろう?と思った。


「さっきも言ったけど、人の声って大概いくつかの音が聞き取れないんだ。でも、松坂の声は全部聴こえるよ。今までそんな人に出会ったことなかった」

「それって、すごいことなのか?」

「俺にとっては、すごいことだよ。勘違いした言葉で会話が噛みあわないこともあるんだけど、そういう心配をしなくていいからさ」

「…………」

「こんな声を持つ人間に出会えるなんて、俺、思ってなかったからさ、初めて声かけてくれた時に思わずもう一回聞き直しちまったよ」


それは、俺の声の音域が岡崎の可聴音域にピッタリ重なったということなんだろうか。

多分、そういうことなんだよな。

なんて言ったらいいんだろう、また失言してしまいそうで自信がない。


「この耳のことはクラスのみんなに話さなきゃならないんだろうけど、なかなか言うきっかけも無いし、何しろ色んな人間がいるからさ」


さすがの俺も、岡崎の言葉に暗い一面を察した。

多分、今までに心無い仕打ちを受けたこともあったのだろう。

好んでそういう身体に生まれたわけじゃないのに、違うというだけで胸をえぐるようなことを平気でやる人間が確かにいる。

それも、少なくはない。

傷ついてきた過去を見たよう気がして、切なくなった。


「俺よく分かんねえけど、俺が岡崎にとって楽に居られる相手なら良かったって思うよ」


岡崎がこっちを向いて、はにかんだ。


「ありがとな。迷惑じゃなければ、近くに居てもらえると助かるよ。俺が聞き取れない音、松坂が教えてくれたら嬉しい」


そんなこと、お安い御用だと思う。

どうしてだろう、俺は岡崎の力になってやりたくてしょうがなかった。

数々の失言に対する、名誉挽回の気持ちだろうか。


「全然迷惑じゃねぇよ。っていうか、逆に俺が岡崎の近くに居たら嫌じゃねぇ?俺、すぐにズケズケ言うし」


岡崎は思いっきりハハッと笑った。


「やっぱ松坂は面白いや。いい奴だし。本気でヨロシク」


スッと右手を差し出してくる。

これは握手しようってことか?

俺は一瞬戸惑った。

しかし、岡崎は嬉しそうにそのまま俺の右手を取って、ギュッと握ってきた。

男にしては節の目立たない、長い指の綺麗な手だ。

柔らかい掌が俺の掌を包み込む。

そのヒヤリとした感触が、俺の温もりを奪っていった。

176cmの俺の視線の先に、岡崎の頭のてっぺんがある。

不意に見上げてくるその顔が思いがけず近くて、俺は思わず顔を逸らした。

一瞬間近で見たその瞳は、ほんの少しグレーがかっていて、この目にみつめられたら何かおかしなことを口走ってしまいそうで怖かった。


「……こっちこそ、ヨロシクな」


 かろうじて出た言葉は、岡崎の可聴音域にうまく乗せることができただろうか。

 それに応えるかのように、岡崎は握った手にグッと力を込めて微笑んだ。


  

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