第17話 心の結果

気が付いたら天上世界の教室で、僕はふよふよと漂っていた。どうしてここに居るのか、僕は先ほどまで何をしていたのか。何もかもを一瞬だけ忘れて、そして思い出す。

そうだ、僕は心の試験を地上で受けて、メイちゃんを救うために奔走したのだ。そして、肉体を滅ぼすまでに至ってしまった。

僕はなんとも言えない複雑な心境で、周りを見渡す。すると、心の試験を終えたのは僕だけなのか、教室内には誰も居なかった。

一人では何をしていいのか分からない。それに、今は誰かと話をしたい気分だ。心にぽっかりと空いたこの穴は、きっと寂しさという名前がつくのだろう。

僕は以前までは感じなかったそれに戸惑いつつ、教室の入り口に向かう。すると、目の前にぼよん、と揺れるお腹が現れた。気づいたときにはそのお腹に押し戻されて、僕は半ばそれに抱き着く形になった。

そして、そのお腹の持ち主が誰か分かると、自ら抱き着いた。

会いたかった。今まで以上に会いたかった。

「先生……!」

「何だね、そんなに喜んで。寂しかったかい」

「はい、寂しかったです。それに、聞いてほしい事があるんです」

心の試験の最中にあった出来事。メイちゃんのこと、家族のこと、病院のこと。誰かに話さずに、このもやもや感は拭えない気がするのだ。だけどコブタ先生は、その大きな手で僕をぽんぽんと撫でると、ニッコリ笑った。大きなえくぼが、僕を安心させる。

「私はね、君の試験をずっと見ていたんだよ。だからおおよその事情は知っている。メイちゃんというい女の子のことも、君がなかなかどうして面白い行動を取ったことも」

「あ、そっか。先生は試験官だから」

僕を、ずっと見ていたのだ。知らないわけがない。だって、あの一週間の行動で僕の心が人間に就職するに相応しいのか、見極めるのだから。

「だから君が最後、無茶をしたことも知っている。君は知らないかもしれないけれど、心の試験は終了時刻になると天上世界に強制送還されるんだ。地上の人々の記憶も同時に消える。だけど、肉体を滅ぼしてこっちに戻って来たのは君が初めてだよ」

「……いけないことだったでしょうか」

「いいや、そんなことはない。物事にはきっと良いも悪いもないんだ。人間が勝手に都合をつけて判断しているだけ。君がそれでいいと信じて進んだのなら、それで良かったのだよ」

「それ、リカちゃんも同じことを言っていました」

「ほう。リカはまだこの言葉を覚えているのかね。それは良い事を聞いた」

コブタ先生はさも嬉しそうに髭を撫でつけた。今日はカールの具合が絶妙で、こういう時は機嫌がすこぶる良い日らしい。きっとリカちゃんの様子を聞けて、嬉しくなったんだろう。

そして先生は教卓に立つと、僕を定位置につかせて、ごほん、と咳ばらいをした。どうしたんだろう。何があるんだろう。僕は少しの期待を持ちながら先生の言葉を待っていると、それは予想外のものだった。

「私は君を見ていたから、試験中の出来事は知っている。だけどね、それを自分の言葉で説明することも大切だ」

「でも、それじゃあ先生は知っている話を聞かされることになります」

「ああ、もちろんそうだとも。だけどね、君の口からこの一週間の出来事を聞きたい。君の言葉で説明するんだ。出来れば、その時思ったこと、感じたことも交えてね。そうすれば、私も新しい発見があるだろう」

なるほど、そうすることで何か意味のあるものが出来上がるのか。僕は先生の意図することを汲み取り、じっと目を見つめた。

その目は、期待と希望に満ち溢れているような気がした。

そうして僕は、ゆっくり、たどたどしく一週間の事を話した。

最初、どうすればいいのか分からず、リカちゃんに会いに行こうとしたこと。

ずっと気になっていたメイちゃんに公園で再会したこと。

夜中に色々な人の話を聞いて回ったこと。

メイちゃんと猫を探したこと。

アパートの一室で、メイちゃんとおにぎりを作ったこと。

訳も分からないまま、掃除をしたこと。

病院に行ったこと。

学校に行かせたこと。

メイちゃんの家族の話を聞いたこと。

僕が、決意をしたこと。


メイちゃんと一緒に居られて、楽しかった。

へたくそなおにぎりを美味しいと言って食べてくれたことが嬉しかった。

メイちゃんのお母さんの態度に腹が立った。

傷ついて泣いているメイちゃんを見るのは辛かった。

僕は、メイちゃんが大好きだった。

愛しくて、守りたくて、君のためならなんだってしてあげようと思ったんだ。

天上世界に帰ることを拒否してでも、あの子の傍に居たかった。

メイちゃんを、幸せにしたかった。

僕が未だ感じたことのない家族の温もりを、僕自身であの子に与えたかった。

あの子の、家族になりたかった。


全てを話し終えると、僕は人間の身体を失ったはずなのに、胸を締め付けられるような感覚に陥った。人間とは、心を動かし、それに比例して身体も反応する。些細な事で、何もかもが変わる。

本当に、不思議な生き物。

心って、本当に面白い。

「そうかい。君は、そう思ったんだね」

「先生、僕の話はどうですか。何か、意味のあるものになっていますか」

「意味の有無は、今は関係ないよ。でもね、私は君の話を聞いて、見てきた一週間の出来事に彩りがついた。それだけで、とても有意義な事に思えるよ」

コブタ先生は、目を細めて背を向けた。その大きな体は、震えているように見えて、僕は先生の顔を覗き込んだ。先生は、涙目だった。

「……先生?」

「ああ、いや。……気にしないでくれ。教え子が、これほどまでに成長した姿を見られて、私は嬉しいんだ」

感動屋で、涙もろい先生は、そんな事を言って目元を拭った。さっきまで絶妙なカール具合を出していた髭が、しゅんと下がっている。僕もそれを見て、どうしようもなく先生に抱き着いた。心優しい先生が、僕は大好きだ。

「ほら、ごらんなさい」

先生がおもむろに取り出したのは、地上を映す鏡だった。それも手鏡だ。地上鏡が、コンパクトになって僕の前にあるという事実に驚いたのだけれど、それよりもその鏡に映るものに釘付けになった。

鏡に映っているのは、メイちゃんだったからだ。

メイちゃんはお母さんと一緒に、散らかった部屋を片付けていた。

僕が片付けるよりも手際よく、ごみ袋にどんどん詰めていく。散乱したそれらを捨てていく様は見ていて気持ちいい。

時折メイちゃんとお母さんは視線を交わして、笑いあう。

もうすぐ終わるね。

終わったらご飯を作るわ、何がいい?

えっとね、おにぎりがいい。

おにぎり?そんな簡単なものでいいの?

いいの。私ね、お母さんが入院してるとき、とても不格好なおにぎりを食べたの。でも、凄く温かくて、美味しかった。

そうなの。じゃあ、作ってあげるわ。

うん、具はシーチキンだよ。

はいはい、分かりました。


何でもないワンシーン。

メイちゃんの、望んだ環境。

それが、実現している。幸せそうに笑っている。

僕は嬉しくて、だけど凄く切なくて。

どうしようもなく、愛おしかった。

「君が居た記憶は消えている。だけど、君が居た事実は変わらない。君はこの親子を、助けたんだ」

先生の言葉に頷く。

そうだ、僕はメイちゃんを救うことが出来た。肉体を滅ぼしてしまうことになったけれど、最終的には良い方向へと行ってくれた。僕の決意は、無駄じゃなかった。

僕が作ったおにぎりは、確かにメイちゃんの心に残ったのだ。

僕がメイちゃんのためにしたことは、ちゃんと残っていたのだ。

これからメイちゃんは公園に泣きに行くことはなくなるだろう。

お母さんと協力して、質素だけれどごくささやかな生活を送って、成長していくのだろう。

僕は、その未来を想像しただけでたまらない気持ちになる。

きっと人間だったらこんな時、泣くんだろうな。

心の清算をするために、涙を流して、嬉しかったことや悲しかったことを刻み付けるんだ。

ああ、やっぱり。

「僕は、人間に就職したい」

その呟きが聞こえたのか、先生は手鏡を仕舞うなり、今度はノートを取り出して真面目な表情で一呼吸置いた。お腹も揺れることなく、僕を迎える。

「喜び、悲しみ、嬉しさを学び、思いやりを覚え、愛しさに身を焦がし、守りたいもののために怒り、誰かのために動けた君は、立派な心の持ち主だ」

先生は、そう言うと、何かを堪えるようにその大きな口を閉じる。そして、拳をグッと握って僕に差し出した。

「おめでとう。君は心の試験に合格だ」

それを言った直後、先生が大号泣して、僕が喜んでいる暇もなかったのは誰にも内緒だ。

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