第16話 幸せ

メイちゃん。君は、もう幸せになっていいんだよ。

そう言うと、小さな猫のような女の子は、年齢に似つかわしくない儚い笑顔で答えるのだ。

私は幸せだよ。お母さんが居て、天使さんが居て。それだけで、私はじゅうぶんなの。


ねえ、それは本当かな。

本当に、君はそれで幸せなのかな。

幸せって、なんだろう。


「本当に、天使さんなの?」

メイちゃんのその一言で僕は必死に頷いた。鏡を見ながら、そして映り込んだ背後のメイちゃんを見ながら、自分でも不思議な気分で顔を撫でる。そして、手元の写真と交互に見比べて、入念にチェックした。

陰気な髪形、異常に大きいつり目、薄い唇、やせ細った不健康な身体。

何処からどう見ても、それはメイちゃんのお父さんにそっくりだった。

メイちゃんは驚いた様子で、だけど何処か嬉しそうに目じりを下げて僕に抱き着く。僕も慌てて受け止めて、小さなその身体を精いっぱい包み込んだ。

「お父さんにそっくり。生き返ったのかと思った」

「嫌だった?」

「ううん、嬉しい」

きっと、こんな事をしてはいけないだろうってのは分かっている。だけど、こうするしかない。僕は、メイちゃんを見捨てられなかった。

僕は昨日、おばさんの元を駆け出すと公園に向かって、違う姿に変わる練習をしていた。コブタ先生に聞いた、固定された姿を変えるその方法。緻密にイメージして、想像を膨らませる。通りがかる人たちにそっくりの姿を、作り上げる。メイちゃんが学校から帰ってくるまで、僕はひたすら練習をして、今日のために備えた。

そして、アパートに帰るとメイちゃんのお父さんの写真をひたすら探し続けた。ある程度片付けたとはいえ、散らかったままの室内ではとても探しきれなくて、メイちゃんが寝静まってからも探し続けた。

そしてようやく見つけた写真を頼りに、僕は姿を変える。

僕から、お父さんへと。

自分でもびっくりの出来上がりに、少し誇らしい。こんなにもそっくりに出来るなんて。陰気な雰囲気もそのままだ。

「見た目が変わるなんて、天使さんって本当に凄い人なんだね」

「ありがとう。でも、本当はこんなことするつもりなかったんだ」

「そうなの?」

僕は頷く。腕の中のメイちゃんは、可愛く首を傾げてどういうことなのか分からないと言いたそうだ。だけど、言うわけにはいかない。言わなくていい。これは、僕の事なのだから。

僕は、メイちゃんのお父さんになる。お父さんの姿を真似ただけじゃない。メイちゃんを幸せにするために、この家を出て、世間を知って、メイちゃんを育てる。僕は、人間に就職しない。このまま、地上世界に留まり続けてやる。

その決意は固かった。

きっと天上世界で見ているはずのコブタ先生に、僕は宣言する。僕は、メイちゃんのお父さんになるんだと。この子を、幸せにしてあげるんだと。

「さあ、メイちゃん。今日から僕は君のお父さんだ」

「ホントっ!?お父さんになってくれるの?ずっと一緒に居てくれるの?」

「もちろん。だから、出かけよう。何処に行きたい?何処へでも連れてってあげるよ」

夫を憎み、娘を捨てた母親から君を守るために。ただ、君の笑顔を見たいがために。僕は、何処へでも連れて行ってあげよう。お母さんから、引き離してあげよう。

僕はそう思って言ったのだけど、メイちゃんの答えは遥かに想像を超えていた。

「じゃあ、お母さんのところがいい」

「……え?」

「だって、天使さんはお父さんになってくれるんでしょう?じゃあ、また三人一緒に暮らせるんだよね。だから、お母さんのところに行こう!丁度今日はお母さんの退院日だよ!」

無邪気にそんなことを言うメイちゃんに、僕はどうしていいか分からなかった。君は、あんな扱いを受けておいて、まだお母さんのところへ行こうと言うのか。捨てられたも同然なのに、どうしてそうなんだ。なんでだろう。僕には分からないよ。ねえ、本当に分からない。

「メイちゃん、君は本当に……」

お母さんが好きなの?

そう言いかけたところで、玄関の開く音がした。

僕は咄嗟にメイちゃんを離し、やって来るであろう人物に目を向ける。本当は顔を合わせずにメイちゃんを連れ出したかったけれど、そうもいかないらしい。退院日だから、ここに寄ることは考えられた。そう、予想できたのだ。

「……メイ、お金を置いていくからもう……、」

お母さんは僕の姿を見るなり、目をカッと開いた。瞳孔が開いて、狂気に満ちた表情になる。僕はどうしていいか分からずにその場に立ち尽くす。メイちゃんだけが、嬉しそうにお母さんに駆け寄った。

「お母さん!見て!これで、家族三人、元通りだよ!」

メイちゃんの無邪気な声は、僕とお母さんを更に険しくさせた。僕にその気はない。もちろん、彼女にも。

「なんで、アナタがここに……死んだんじゃ、なかったの」

「お母さん、この人はお父さんじゃないよ。天使さんなんだよ。お父さんになってくれるんだって!」

「ふざけないで……、ふざけないでよ!」

耳を劈くような怒声だった。メイちゃんのお母さんは鬼の形相でこちらを睨みつけていた。身がすくむような覇気。なぜだか足が震えて、動けなかった。メイちゃんも口をぽかんと開けて、やがて交互に僕たちの顔を見た。

「一体どこの誰か知らないけれど、あいつに成りすまして私をどうこうしようたって無駄よ!」

「あなたをどうこうする気なんてないです。僕は、メイちゃんのお父さんになるためにここに居ます」

「メイを連れていくの?どうしてよ」

「メイちゃんを置いて逃げていったあなたこそどうして?もうそこまで執着する必要はないでしょう。さあ、メイちゃん、おいで」

僕は両手を広げて、彼女がやって来るのを待つ。さあ、僕がこんな狭苦しい場所から連れ出してあげる。君を傷つける人から、遠ざけてあげる。

そう思ったのだけれど、メイちゃんは動かなかった。不安そうな顔をして、お母さんをずっと見つめていた。その様子に、僕は酷く苛立った。

「メイちゃん。いいから、おいで」

「行かなくていいのよ、メイ。こんな、私たちを不幸に陥れた男の元へは、行かなくていいの」

メイちゃんのお母さんは、背中に何かを隠すように持っていた。一体なんだろう。僕はメイちゃんの傍から離れ、お母さんに近づく。その背中に、あなたは一体何を持っているのですか。

「何か、隠しているでしょう。見せてください」

「ふふ、そうね。……見せてあげる」

そう言った時には、もう遅かった。

腹部辺りに何かがぐさりと刺さって、僕はどうすることもなく膝から崩れ落ちる。慌ててお腹を見ると、服が真っ赤に染まって包丁が刺さっていた。痛い。激痛が走って、僕の額から汗が一筋流れる。偽の身体でも、痛みは感じることが出来るのか。そんなどうでもいいことが頭をよぎって、笑いを漏らす。はは、どうすればいいんだろう。とても痛くて、今にも意識を失ってしまいそうだ。

メイちゃんが駆け寄ってくる音がする。見上げた先には無表情で立ち尽くすお母さんの姿。やせ細った、病的な身体が僕に近づいたとき、言いようのない恐怖に襲われた。

「天使さんっ!大丈夫!?」

大丈夫、そう言いたいけれど、何も言えない。偽物の身体でも、相応の痛みを伴うことなんて予想外だった。いや、それよりもお母さんの行動が、一番予想外だ。こんな事をするなんて。

「私の目の前に、現れたからいけないのよ……。私の人生を奪ったその罪、絶対に償わせてやる……」

俯いて、長い髪を揺らしてぶつぶつと呟くその様子は幽鬼のようだ。その様子に、メイちゃんも僕の背中をさすりながら涙目でお母さんを見ていた。

ああ、そんな顔をしないで。君を泣かせたかったわけじゃないんだ。

君を、ただ幸せに。

笑顔にしたかっただけなのに。

どうしてこうも、上手くいかないのだろう。

どうして君は、それでもお母さんを捨てなかったのだろう。

僕はとめどなく考えながら、メイちゃんを見る。小さなその背中はぷるぷると震えていた。

そして、初めて大きな声をあげた。

「お母さんなんか、だいっっっっっっきらい!」

部屋中にそれは響いた。もちろん僕のお腹にも。痛くて痛くて、包丁を抜いたら血が溢れ出た。あーあ。やっちゃった。

いや、それどころじゃない。今、メイちゃんはなんといった?

お母さんが、大嫌いだって?

メイちゃんは、小さいながらに必死にお母さんを睨みつけ、威嚇していた。それは、僕が出会ったばかりの頃の警戒心に似ていた。

対してお母さんは、その言葉に驚いたように立ち尽くして、両手をだらりと下げていた。そんなこと、言われるなんて思ってなかったのだろう。

そして、視線が僕のお腹に行く。真っ赤に染まって、未だ溢れ続けるこの真っ赤な血を、彼女が見つめる。そして、メイちゃんを見る。

「あ、あ、あああ、ああああああ……」

お母さんが崩れ落ちる。自分が何をしたのか、ようやく理解したように、両手で顔を押さえた。膝立ちで移動してメイちゃんを抱きしめる。

そして、ひたすら謝り続けるのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい。メイ、本当にごめんなさい。だから、嫌いなんて言わないで。私を一人にしないで」

「……うん」

メイちゃんが初めて幸せそうな顔をした。お母さんに抱きしめられて、僕の前では決して見せなかった感情を露わにする。はは、なんだ。結局、仲直り出来たじゃんか。僕は思いっきりため息をつくと、よろよろと立ち上がって、アパートを出た。痛みに耐えつつも、必死に歩く。僕らが出会った、あの公園に行きたい。最後に、あの場所を見たい。

そう思った。

二人が、幸せに暮らせるならいいんだ。それで。

アパートの一室に広がった血は、何事も無かったかのように消えて、ただ嬉しそうに抱き合う親子だけが残された。

その二人に、偽りの天使さんの記憶は、当然なかった。


「どれだけ虐げられても、嫌いになりきれない。どれだけ捨てようと思っても、捨てきれない。親子、そして家族。不思議なものでしょう」

やっとのことでたどり着いた公園で、力尽きて倒れると、何処からか声がした。消えかかったこの身体を見ることが出来る人なんて限られている。僕は辛うじて残る力を振り絞って、頭を上げた。

そこには予想通り、リカちゃんが悠然と立っていた。

「もちろん絆がそれを超えることもあるのだけれど、時間をかけなかったあなたには無理な話ね。不幸な親子の絆を、超えられなかったのよ」

「うん……そうだね。愛情と憎しみが裏返しって、本当なんだね」

「そうね。あのお母さんは、メイちゃんをなんだかんだ言って愛していた。でも、それを気付かせたのは貴方の成果なのだから、喜んでいいのよ」

「でも、素直に喜べないよ」

だって、僕の決意は泡になって消えたのだ。結局、本当の家族には負けた。メイちゃんは最後の最後まで、僕の元へ来て一緒にあそこから離れようなんて考えなかった。悔しい。これが、悔しいという感情。かつてカツアゲされたあの青年の気持ちが、今少しだけ分かる。自分に出来そうで出来なかったことは、酷く悔しい。やり直したい。そう思う。

「ふふ、やはり面倒な事になったでしょう。だからあの子には関わらなかったの」

「でも、それで僕は学べたんだ。悔しくても、後悔はしないよ」

「成長したのね」

リカちゃんは一度だけ笑うと、しゃがみこんで、倒れこんだ僕に視線を合わせた。随分前に見慣れた制服が、近づく。

「さあ、眠りなさい。結果を楽しみにしていてね」

徐々に微睡む中、リカちゃんの優しい声が響く。そうだ、僕は心の試験の最中だった。

こんな無茶をしてしまったのだ、きっと落ちているだろうな。だけど、後悔はしていないのだから、これでいい。

僕は吹っ切れたように頷くと、そのまま深い眠りに落ちた。

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