第15話 少女の家族

あれから僕は頻繁に病院に向かうようになった。もちろん、メイちゃんのお母さんを説得するためだ。

どうか考え直してほしい。メイちゃんは、お母さんなくしては生きてはいけない。貴方を失って、どうやってこれから愛をもらえばいいんですか。あの子はこれからずっと一人ぼっちになってしまうでしょう。

そんな言葉を何度投げかけたか。

僕は、僕が思っている以上にメイちゃんが大切らしい。小さな女の子が懸命になって母を励まそうと通い詰め、決して人前では涙を見せない。そんな健気な姿が、どうにも愛おしくてたまらない。人を愛する、守りたい、という感情を初めて知った僕は、その衝動に駆られるまま、ただただ病院に通い詰めていった。

事あるごとに病院に向かっているため、看護師の人たちは僕の事を覚えたみたいだ。どうやらメイちゃんとお母さんを仲直りさせる希望の存在として見られているみたいで、何度も頑張って、と声をかけられる。ああ、もちろん頑張るとも。

僕はいつしか、心の試験の事をすっかり忘れていた。

「あらぁ、メイちゃんの親代わりをしてくれているのかしら。偉いわねえ」

「いえ、そういうわけではないんですが」

「でも、あれだけ頑固だったメイちゃんを学校に行かせたんでしょう。たいしたもんよ」

僕が人間の姿をもらい受けて、六日目の朝方。

最早日課になっている病院にこれから向かおうというとき、僕は隣の部屋の住人に話しかけられた。白髪交じりの髪に、目元を最大限下げたたれ目、恰幅のいいその身体は、どことなくコブタ先生を彷彿とさせる女性だった。

そんな隣のおばさんが、僕を常々気にしていたという。ここ最近、よく出入りしているところを見かけているみたいだ。

そうして僕とおばさんが世間話に近いものをしていると、こうやって褒められることになった。

寂しそうなメイちゃんは、僕と居るより学校に行って人に囲まれた方がいいかもしれない。友達を作って、先生に勉強を教えてもらった方が、経験も積めるし、人間関係を学べる。それに、勉強をいっぱいすれば将来お母さんの役に立てる。そんな単純な理由をもとに、僕は何とかメイちゃんを学校に行かせたと伝えると、えらく感心された。そんなに凄い事かな。

「あの子、私も気にしていたのよ。何せ以前は毎日大きな音が聞こえてきたからね」

「お母さんの怒鳴り声、ですか」

「ええ、そうよ。口汚い言葉がいっぱい聞こえてきたもの。何とか暴力は振るわないようにあの人も気を付けていたみたいだけど、あれも時間の問題だったわね」

おばさんが垂れ下がった目じりを更に下げた。犬のようなその顔は、愛らしさもあるし、貫禄もある、不思議な顔だった。

「それにメイちゃんも学校に行きたくないってずっと言ってたし……。私が言っても聞くどころか、警戒されて何にも出来なかったわ」

「どうして学校に行きたくないんでしょうか」

「学校に行っている間にお母さんが逃げたのよ。だから怖くて行けないみたいよ」

なるほど、それで頑なに行きたくないと言っていたのか。僕が絶対にお母さんを連れ戻すからと約束したら、メイちゃんは渋々学校に行ってくれた。きっと、学校自体は特に問題もないのだろう。ただ、たった一人の家族を失くすというのは、小学生にとっては耐えきれないものだったのだろう。僕には想像しかできないが、メイちゃんの不安そうな顔を見ればきっと違いない。

「あの、メイちゃんのお父さんは……どうしてるんでしょうか。お母さんがメイちゃんを嫌がる理由って、そこにある気がして」

「あら、察しがいいのね。私も当時の事しか話せないけど……もうお父さんは居ないのよ」

「……と、すると」

「亡くなったの。メイちゃんが小学生になったばかりの時にね」

「そんな。病気ですか」

「いいえ、それがね。メイちゃんの両親はデキちゃった婚なのよ。それで、お父さんの方は全く働かない人で金を食い潰すばかり。それをお母さんの方が必死になって働くように説得しつつメイちゃんを育てたみたい。でもお父さんの方はメイちゃんと、家族を支えるっていうのが相当な重荷だったみたいで、鬱になって自殺してしまったわ」

当時から隣の部屋に住んでいたおばさんは見てきたかのように言う。もちろん、そのころからメイちゃんを気にかけて見ていたのだろう。

僕は、メイちゃんと、お母さんと、見たこともないお父さんの姿を思い浮かべた。まだ、メイちゃんの家族がちゃんと揃っていた時間を。

だけど、僕の乏しい想像力では上手く出来なかった。ただただ、メイちゃんが寂しそうにお母さんを見上げる姿しか浮かんでこない。 僕では、何も出来ない。そんな事実が過った気がして、不安に駆られた。大丈夫。きっと、メイちゃんとお母さんを仲直りさせて幸せにさせてみせる。無理やり言い聞かせておばさんの話に耳を傾けることにした。今はそんな事よりも情報収集がしたい。

「自分を置いて自殺したろくでなしとの子供っていうのは、可愛いだけじゃないんでしょうね、きっと」

「そんなに酷い人だったんですか」

「そりゃあ、もうね……。一日中引きこもってたまに外に出たかと思うと、ボロボロの格好でうろついて奇声を上げたりするし……。夜中に喧嘩する声も何度もあったわ。メイちゃんも居ないものとして扱われていたのよ」

僕は唖然とした。それでは、リカちゃんの言っていた言葉は何だったというのだろう。家族は幸せの象徴。一番幸せを感じやすい、身近な場所。だけど、メイちゃんはリカちゃんの家族のように恵まれた環境にはなかった。他愛のない話をしたり、お父さんにソースを取ってあげたりすることはない。ただひたすら無視をされて、お母さんに縋りつくしかなかった。いつしかお父さんは命を絶ち、お母さんすらもメイちゃんを見てくれなくなった。

僕はどうしようもない怒りが湧いてきて、喉元から何かがせり上がってきそうだった。耐えきれなくなって、おばさんに頭を下げて、アパートを飛び出す。後ろでおばさんの呼び止める声が聞こえた気がしたけれど、構っていられない。腸が煮えくり返る、という言葉の意味を痛感した気がした。僕は今、とても怒っている。確かな怒りを感じて、何かに当たり散らしたくなった。

あんな小さな少女を悲しませて、どうして親だと言えるのだろう。どうして仲直りさせようというのだろう。不幸な環境に恵まれて、一人涙を流す少女を、どうして放っておけるだろう。

僕は、僕のルールを破る。それが僕の就職先に影響しようとも、たとえ消えようとも。

あの子を、一人にさせてはいけない。

お母さんが退院する日。そして僕の心の試験の期限が切れる日。

それが、明日だ。

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