第11話 実地研修

地上に降りてまず最初にしたことは、鏡を見る事だった。天上世界からの贈り物として仮だけれど、人間の姿を手に入れた僕は、コンビニのトイレに駆け込んで、鏡を凝視した。

真っ黒な髪が短く切られて、目も鼻も大きすぎず、小さすぎない。身体は細すぎず、太すぎず、背も高くはないが、低くもない。つまるところ、どこからどう見ても、平凡な空気のような人間だった。

心の試験があの後すぐに始まって、僕たちは地上に飛ばされた。

概要は、こうだ。

一週間、人間の姿を手に入れた僕らの行動をコブタ先生たち試験官が監視し、人間に見合う心を手に入れられたか判断を下す。

この人間の姿は、世を忍ぶ仮の姿……。なんてふざけたことを言うわけにはいかないけれど、実際そんな感じだ。

与えられる最初の姿として、誰の目にも止まらないような人間に出来上がっているのは驚いた。先生の話によると、そのうち自分の意思で姿を変えられるようにもなるから、必要になったら変えなさいということだ。

でも、僕は本当の人間ではない。人間からしたら、幽霊と似たようなものだから、あまり目立つわけにもいかない。

空気のような地味なこの姿は、ある意味有難かった。

「さて、どうしようかな」

与えられた一週間で何をするか、自分で決めなければならない。そして、その行動によって心の成長の様子を見つけることになるのだから、慎重にならなければ。

そうだ、折角だからリカちゃんに会いに行くのもいいかもしれない。当時何も知らなかった僕は、リカちゃんに二度と会えないかもなんて寂しくなったものだけれど、こうしてまた地上に降りられたのだし。

「ううん。でも、なあ」

トイレに映り込んだ変わりない僕の仮の姿に向かって呟く。手を動かす。目を開く。口を開ける。声を出す。すると、また口が開く。足が思い通りに動く。ふふ、なんだか面白い。

人間になれた事にテンションを高くしながら、僕はコンビニを出た。

辺りは真っ暗で、ふとお店に下げられている時計を見ると、十二時を少し過ぎたばかりだった。

これから百六十八時間を使って、僕は何か行動しなければならない。だけど、何をしたらいいのだろう。

リカちゃんに会いに行こうと思ったけれど、それは違うような気がした。

彼女に会うのは、もっと後でもいい。

それよりも、何かやらなければならないことがあった気がする。

「なんだっけ」

そして、僕はリカちゃんと過ごした実地研修の三日間を思い出す。その中で、何か心残りはなかったか。僕が特に気になったことはなかったか。

しばらく考えて、ハッと気づく。

そうだ、僕には気になっていた子が居たじゃないか。

「よし、行こう」

気合を入れて、歩き出す。向かう先は、リカちゃんの家の前に佇む、あの公園だった。


リカちゃんの家の向かいにある公園に行くと、あの子は居た。

いつものように、泣きながらベンチに座って、外灯に照らされていた。静かに落ちる雫は月の光に当たって輝いている。

僕はその輝きに導かれるように彼女に近づいて目線を合わせる。

「っ……」

少女は怯えたように僕から視線を逸らして、俯いた。とめどなく溢れる涙を僕に見られまいと必死に腕で顔をこする。だけど、彼女の意思に反してその綺麗な目は涙を生むことをやめなかった。

「ねえ、どうして泣いてるの?」

僕が静かに問いかけて、少女をじっと見つめる。だけど、彼女は一向に目を合わせてくれない。それどころか、話しかけないでくれとでも言うように腕に顔をうずめた。さらさらの髪が流れ落ちて、月光に照らされた少女は花のように儚げだった。

「僕ね、君がもう何日もこの公園に、こんな時間に来ているのを知っているんだ。何か、事情があるんだよね。教えてくれない?」

僕が優しく諭すように言っても無反応を決め込んだ少女は、随分と小さかった。

実地研修の時は気づかなかったけれど、よくよく見れば彼女はあまりにもやせ細って、背も低い。小学3年生だということは聞いてるが、それにしては成長が閉ざされたように小さかった。不健康極まりない、という言葉がぴったりだ。

しばらく無言の圧力をかけてみるものの、少女はずっと顔をうずめているばかりで何も話してくれない。

でも、それも当然かなと思う。

いきなり現れた男に、夜中に話しかけられれば誰でも警戒する。それが善良な心を持ってして接していてもだ。

少女は逃げ出さない分、マシなほうかもしれない。

僕はそうやって心に折り合いをつけて、立ち上がる。

足音を聞いてようやく立ち去るのかと思ったのか、少女は顔を少しだけあげた。だけど、残念。そんな簡単に帰らないんだ、僕は。

「よいしょっと」

僕はさも当たり前のように、少女の座るベンチの隣に腰かけた。ああ、ここからだと外灯に照らされて遊具が色々見える。滑り台、ブランコ、鉄棒。

どれも、子供に人気のある遊具だったはずだ。

「な、んで」

少女はようやく声を出したかと思えば、驚いた目を僕に向けて、ささっとベンチの端に移動した。うんうん、確かに不審人物と捉えられてもしょうがないかもしれないな。

僕は慣れない筋肉を使って、微笑んで見せる。大丈夫だよ、気にしなくていいよ、と。

「僕は、ここに居たいから居るだけ。君は気にしなくていいよ」

だから、その涙を無理に止めなくたっていいんだよ。

泣きたいときは泣かなければならない。先生に教わったことを思い出しながら、僕は素知らぬ顔で、外灯に集まる蛾を見つめた。僕は、ただ隣に座って彼女を一人にしないように過ごすだけ。

少女はしばし放心して、その後、何事もなかったかのように顔をまたうずめた。だけど、以前よりも泣き声が聞こえてこなかった。

僕はそのまま、少女が帰るまで隣に居続けた。

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