第9話 手違い
「違う違う違う!」
以前犬に就職したいと言っていた彼は、びゅんびゅんと辺りを飛び回っていた。僕たちは飛び回る彼に当たらないように注意しながらこっそりと近づいて、ひとまず彼を落ち着かせようと努める。
「どうしたの、きみ」
「ああ、お前は人間に就職したいやつじゃないか。聞いてくれ、俺は就職先を変えなければならなくなったんだ!」
彼が犬に就職していたら、それこそ唸り声をあげて警戒心をむき出しにしそうな様子だった。未だぐるぐると飛び回っているのは落ち着かないからだろうか。僕はどういうことだい、と彼の目線までたどり着くと、ふよふよ揺れた。
就職先を強制的に変えさせられるということだよ。彼はそう言って飛び回るのをやめた。それは、滅多なことがなければないと聞いたはずだけれど。下の方ではつまらなさそうに蛙に就職したい友人がコブタ先生と、犬に就職したい彼を指導した先生と話をしていた。
「俺は犬に就職できなくなったんだ。あんなに憧れていたのに!」
「何か理由があるの?君はあんなに犬に就職したがってたじゃないか」
いつか語り合った未来予想図を思い出す。彼は嬉しそうに、人間に忠を尽くす犬になりたいと言っていた。そして、僕が人間に就職した暁には、僕のもとへ来てくれるとも。あんなに楽しい未来を想像していたのに、彼がその就職先を変えるなんて、おかしい。
「手違いがあったんだ」
「手違い?」
「ああ。本当は犬に実地研修を見てもらうはずだったのに、俺を担当したあの先生が間違えて人間のもとへ送り込んだんだ。それで……それで」
彼はとうとう声を出すのも嫌だという様に押し黙った。先ほど暴れまわっていたのが嘘のように彼はしゅんとして、それはとても悲しげだった。
そして、何も語らない彼の姿を見て僕はおおよその事態を把握することが出来た。
つまり、こういうことだ。
彼は真面目にも、人間に就職したいわけじゃないのに、送り込まれたのなら、と実地研修を人間のもとでやってしまったのだ。だけど、それだけなら別にいいじゃないか。また実地研修を犬のところでさせてもらえるだろう。
僕がそう思って、大丈夫だよ、と声をかけると、彼はその声を無視してコブタ先生のところへ飛んでいく。僕も慌てて後を追うが、何やらコブタ先生は剣呑な雰囲気を醸し出して、会話に入りづらかった。
「なるほど、そういうことかね」
「はい……。彼には本当に申し訳ない事をしてしまい……」
先ほどまで当たり散らしていた犬に就職したい彼は、黙って場の様子を見守っていた。先生二人が深刻な顔をして状況を把握している隣で、蛙に就職したい友人がぽそっと呟いた。それは、その場の空気を重くするものだった。
「もう、人間に就職するしかないね」
「っ……!」
彼は何も考えずに、ただその場の判断でこれからの事を言ったに違いない。だけど、犬に就職したい彼は、どうしようもなく、その言葉で打ちのめされたかのように地面にぺたりと下りた。そして、何も話さなくなる。
僕はその様子を見て、ただならぬものを感じた。事態は僕が思っているよりも簡単ではなく、彼の言う通り、人間に就職するしかない、ということだろう。
「実地研修を受けなおしても、もう就職先は変えられないってことですか」
僕の問いにいち早く答えたのはコブタ先生の隣にいる手違いを犯した先生だった。彼は神経質そうな表情やらそのやせ細った身体やら、リカちゃんと受けたあの授業の先生に似ている。
「ええ、本当に申し訳ないけれど、変えられません。人間以外だったらまだ可能性の余地があるのですが。……本当に、申し訳ございません」
「つまり、心を大きくしてしまったから?」
僕のその答えに、二人の先生は深く頷いた。犬に就職したい彼も、静かにしつつもその言葉に反応していた。彼は、その心とやらを身を以って知っているはずだ。
「人間の就職を望む者以外は、基本的にその生物についた生き方、子孫の残し方、習性などを実地研修で学びます。しかし人間は違う。人間だけは、今後に控える心の試験のため、心をより成長させ、立派にさせるべく精神的なものを学んでいきます」
「心を大きく成長させてしまった彼は、犬に就職しようとも型が違うから出来ないのだよ。人間の心は、他の動植物にとってはあまりにも大きすぎるのだから」
コブタ先生は眉を寄せて、ため息をついた。それは、同僚のミスを嘆いているのか、それとも彼の境遇を案じているのか。
「俺はもう、犬には就職できない……」
その事実は、覆せない。蛙に就職したい友人だけがその事実をありのまま受け止めて、何もないようにしていた。だけど、僕と、コブタ先生と、ミスをした先生は暗い表情で場の空気を重くした。
「せめて、実地研修を失敗に終わらせれば良かったのですが」
それは、基本的に真面目な僕たちには土台無理な話だった。機械的で、無機質で、だけど何物にもなれる僕らは学ぶことが得意だ。それをすぐに自分のものにするのも。就職してから生きるための、基礎的なものを蓄えるのだから当然の事だった。
そして、僕も蛙に就職したい友人も、もちろん犬に就職したい彼も。実地研修で学んだことをしっかり自分のものにして帰ってきている。それに一度実地研修を受けるために地上に降りれば、三日経つまで帰れない。絶対に。だから学ばざるを得ない。
「心を成長させてしまったからね。難しいが、人間に就職してくれとしか言いようがない」
「本当に、申し訳ないです」
二人の先生に懇願されて、彼はもういいとでも言うように地面から離れる。そして、投げやりに、客観的な視点で自分の事を語る。
「いいです、もう。心を成長させていなければ、あんなに怒ることはなかった。取り乱して飛び回らなかった。きっと、研修を終えていなければ就職先が変わろうと淡々と受け入れてしまったでしょう。でも、今の俺には大きな心がある。もう……受け入れるしかないじゃないですか」
「ああ、その通りだ。なに、人間とは良くも悪くも面白い。就職先として間違っているということはないと思うよ。……いや、何を選んでも間違いなんてないのだろうけどね。人間はすぐに間違いを決めつけてしまう」
「みたいですね。でも、先生のようになれるなら、少しは希望が持てます」
「それはよかった。ではこれからはその心を持って励みなさい」
「はい」
頷いた彼は、もう一人になりたいとでもいうようにこの場をゆっくりと離れて行った。僕にはその姿が酷く輝いて見えた。自分の希望を押し付けすぎず、時に意思を曲げる。
それは、なかなか出来ない事だと思う。僕には彼が何倍も大きく見えて、思わず尊敬してしまった。
「彼は、就職後まともに暮らせますかね」
ミスをした先生が、ひとりでにそうごちる。僕はぎょっとして先生に詰め寄る。一体どういう意味だろう。何か、まだ手違いがあったのだろうか。
「どういうことですか」
「いや、たいしたことではないんだ。その……」
「こら、きみの悪い癖はそのしどろもどろになって、答えを言えなくなることだ。背筋を伸ばしなさい。しっかりと前を向いて、生徒の質問に答えなさい。でなければ、立派な先生にはなれないよ」
「は、はい……。いや、実は就職先をごくまれに希望と違うところになってしまう子がいてね。そういう子は、何かと不幸が起こりやすいと言われているんだ。とりわけ人間はその傾向が強い」
「不幸って、どんな?」
「自殺をしてしまうだとか、引きこもってしまうとか。自分なんか、生まれてこなければよかったと考えてしまう子が度々出ているんだ」
となると、以前にもそんな人たちが何人か居たということだろう。僕は彼が就職した後の事を考えるとゾッとして身震いした。彼が、希望先を違えたせいで自分の事を良くないほうに考えてしまう。
「ここで暮らしていた記憶は忘れてしまうけど、本能は忘れていない。それが起因して、人間の生を終わらせたくなってしまうんだろう、と我々は踏んでいるよ」
コブタ先生は彼の立ち去った場所を見つめて大きなお腹をへこませる。ひげが悲しそうに揺れた。何人もの生徒を就職させた歴戦の教授の眼差しは、温かくて、そして不安げだった。
「……本当に、人間っていうのは面倒なんだな」
横でそう漏らした友人は、ゲコ、と鳴いた気がした。
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