第8話 溢れ出る心
「さて、君たち。実地研修はどうだったね」
僕が天上世界に帰ってから数時間後の事だ。こちらでは朝も昼もなくて、地上ではそろそろ夜が明ける。きっとリカちゃんはぐっすり夢の中であろうそんな時間に、コブタ先生は出迎えてくれて、そんなことを聞いた。
僕はその質問に答えようとして、だけど答えらえなかった。なんというか、いろいろ気持ちがいっぱいいっぱいだったのだ。
地上での実地研修で得たものが大きいこともあるし、体験したことを早く先生に話したいという気持ちもある。だけど、それ以上になぜだかあの先生のぽよぽよ揺れるお腹を見たらホッと安心して、胸はないのに胸がいっぱいになったのだ。
あのやせ細って抑揚がなくて、たいしてつまらない授業を繰り広げていたあの先生を思い出して、そしてコブタ先生を再び見る。カールした口ひげに、トランポリンのようなお腹。優しい顔に、僕をしっかりと見るまあるい目。そのどれもが三日しか経っていないというのに懐かしくて、僕を安心させて、凄く充足感を与えてくれる。これが実地研修を終えた成果だというのなら、本当に勉強になった。以前の僕なら、何の考えなしに先生にただ報告して、またいつもの日常に戻ってしまうことだろう。
そして隣に蛙に就職したい友人が居ることも大きかった。彼は地上で蛙に実地研修をさせてもらっていたらしい。彼もどこかあか抜けた様子で僕の隣を漂っていた。
だけど、僕のように何かに戸惑ったりはしていない。それはきっと、心を学びに行ったわけではないからだ。蛙に就職するために、もっと重要なことを学びに行ったに過ぎない。
だから、彼は何のためらいもなく実地研修の感想を述べた。
「地上の蛙はとても素晴らしかったと思います。僕に教えてくれたのはヒキガエルで、彼らは鳴き方、獲物の捕らえ方、呼吸の仕方など生きていくうえで大切なことをあらかた教えてくれました。今なら僕はすぐにでも蛙に就職できる気さえします」
「ほう、そうかね。では何が一番楽しかったか、教えてごらんなさい」
「はい、 僕は以前から蛙のあのつぶらな目に惹かれて就職希望を出していました。そして、今回三日間ずっとその目を見ていることが出来たことが楽しかったです。僕も就職したらあの目が得られると思うと、今から楽しみでなりません」
熱心なようでいて、声を抑えたその声は、僕からしたら少しだけ無機質に思えた。以前ならそう感じなかったのに、やけに気になる。だって、その平坦な語り口調はあまりにも感情がこもっていない。あのやせ細った先生よりも無感動で、そしてそれは彼が蛙に近づきつつある証拠だった。
「そうかい。君の研修はうまくいったようだね。それは何より。……では、隣の君はどうだい。確か君は、リカのところだっただろう。あれは高校生にしては一流の講師だ。どうだったかね」
「先生、知り合いなんですか」
「ああ、知り合いだとも。地上と連絡を取るとき、彼女を経由することも多い。何かと頼りになるんだ」
コブタ先生はそう言って頷く。そういえばリカちゃんもコブタ先生を知っているように振舞っていたのを思い出して、僕は意外な繋がりを見つけた気がした。きっと天上世界での講師と地上での講師の二人はやり取りを何度も交わしているのだろう。
僕は先ほどまで聞いていたリカちゃんの声を思い出して、少しだけ気持ちがじんわりとする。再び感情の波が訪れて、僕は結局何も言えない。どうしてだろう。
疑問に思ったところで、すぐに答えが出てくる。そんなのは簡単だ。
心が反応しているから。
これ以外に一体何があるというんだ。
リカちゃんと別れて、まだ数時間しか経っていない。だというのに、なんだかもう会えない気がして、凄く寂しい。尊敬する彼女と話が出来ないのだと思うと、三日しか共に過ごしていないのにそれが尊い日々で、かげかえのないもののように思えた。
隣で蛙に就職したい友人が不審そうに見ていた。ああ、分からないだろう。きっと君は蛙にそんなことを教わっていないだろう。
だけど、見てほしい。僕は三日の実地研修で、こんなにも心を大きくしたんだ。誰かとの別れを経験して、それに大きく心を揺らすまでに至ったんだ。
「ほう、話したいけれど話せない様子だね。もしかして、リカと別れたのが悲しかったのかい」
「はい。……先生、どうして悲しいという感情はあるのでしょうか。僕は、リカちゃんと別れてからずっと寂しくて、もう会えないかと思うと酷く残念な気持ちになるんです」
「心の成長の証だよ。なに、悲しいという気持ちも悪い事ばかりじゃない。その感情がなければ人は尊さを知ることが出来ない。その後に起こる喜びに味を見出せなくなる」
「心とは、そんなに複雑なものなのですか」
蛙に就職したい友人がぽつりと漏らす。コブタ先生はその温かい手を彼にぽん、と乗せて頷いた。その眼差しは慈愛に満ちていて、先生はどうしてか神々しい。
「そうだとも。君はヒキガエルに名残惜しさや悲しさを覚えなかったかい」
「いえ、全く」
「そうだろう。普通の動物はそんな事では心は動かない。だけどね、人間はたった三日でさえ、情を現し、心を大きく揺らしてしまうんだよ。君には必要ないことかもしれないが、彼の成長は面白いだろう」
「見ていて面白いとは思います。しかし、それ以上は何も」
「それでいい。君は君の、蛙らしさを極めて就職しなければならないのだから」
コブタ先生は蛙に就職したい友人を安心させるように微笑むと、髭を撫でつけて僕に視線を向ける。揺れるお腹が全てわかっているとでもいう様に僕を励ます。
「どうやら君は大きく成長できたみたいだ。今はそれが分かっただけで充分さ。いつか、君の気が向いたときにでも研修の感想を聞かせてもらえるかな。私も、リカの様子を聞きたいんだ」
「はい。もちろん。……気持ちに整理がついたら、先生に絶対に話します」
だから、今はそっとしておいてほしい。
僕は、今渦巻いているこの気持ちを大事にしたい。楽しいだとか、嬉しいだとか、そういったものと同等の、大事な感情を。
これを教えてくれたリカちゃんに、最大の感謝をして、僕はコブタ先生にありがとうございますと一礼。蛙に就職したい友人も同じようにする。わざわざ出迎えてくれたコブタ先生は、彼でも感謝に値するらしい。やっぱり、先生は人気者だ。
「さあ、では就職先の勉強でも」
コブタ先生がそう言いかけて、僕らを見つめていた。だけど、その先の言葉を発する前に、違う声に遮られた。
それは、とても緊迫した様子で、僕はおろか、心を成長させていない友人でも驚くような声だった。
「違う!俺は、違うんだ!!」
何事かと三人一緒にその声のもとへ駆けつけると、そこに居たのは、以前僕たちと就職したらこうしたいと未来像を語り合った、犬に就職したい彼だった。
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