第7話 今まで学んだもの

実施研修の三日間というのは、まるで矢が流れていくような時間間隔で、僕にはあっという間だった。気づけば最終日の夜になっていて、リカちゃんはどっと疲れた様に、だけど満足そうに部屋でくつろいでいた。講師としての達成感があるのだという。

「普通じゃ見えない相手に、何かを教え続ける、見本になる。それがどれだけ大変か、想像してみて。でもその分この達成感は代えがたいものになるけれどね」

「ふうん。人間って不思議。疲れるっていうのはよくないことのように思えるけど」

「だからこそ味わえる感情もあるのよ。きっと物事にはいいも悪いもなくて、人間が勝手に決めてしまっているだけ。都合の問題なの」

また一つ、僕は学んだことを頭の中で繰り返して、忘れないようにする。達成感、疲労、そして、物事のいい悪い。ものの見方は人それぞれらしいから、これはリカちゃんの意見と捉えなきゃいけない。だけど、僕からしたらリカちゃんの言っていることはほぼほぼ正しいと感じてしまう。それは、彼女が講師だからだろうか。僕にはわからない。

「さあ、貴方はこの三日間で何を学んだのかしら」

リカちゃんがにやりと不敵に笑って、僕に答えを促す。これは、リカ先生からの復習問題だな!僕は意気込むと、元気よく揺れて、べらべらと今まで習ったことを話す。

「まずは家族について。家族は一番身近な幸せを象徴する場所で、絆を感じやすい!」

「そうね、それから?」

僕は今までの三日間を思い出す。正確に、緻密に。リカちゃんと過ごした、人間に触れた、あの面白い憧憬を。

夜になって、カツアゲをされている男の子を見た。彼は泣いていた。それは悔しいから。

学校に行って、授業を受けた。退屈という言葉を知った。

友達という人間関係を見た。思いやり、気遣い。僕には理解できないけれど、きらきら光るその関係は、憧れてしまうほどのものだった。

他にもいろいろ学んだ。

食べ物の大切さは、人間だけじゃない。生きとし生けるものすべてにとって必要不可欠で、今目の前にある食べ物に感謝しなければならない。食べられることは、とても幸せなことだと。

幸せの形。それは様々で、食べ物で幸せを見出す人もいれば、人との関係性で幸せを感じる人もいる。自分の好きなことをしていれば幸せになれる人もいるし、不幸を幸せだと思う人もいる。人間には、様々な思考の形があって、それは理解できない時もあるし、理解して共有することもできる。

人の幸せは誰かの不幸の上で成り立っている。

でも人間はそんなことを頭に置いて生活はしていない。

資源の必要さ。誰かを大切に思うこと。誰かに何かしてあげたいと思うこと。悲しい。嬉しい。寂しい。楽しい。

色々な感情と、出来事と、考え方。僕は、それをリカちゃんにたくさん教えてもらった。数えきれないくらい、ずっと、ずっと。

だから、僕の最低限の心は少しだけでもいいから成長していてほしい。人間を理解する。花を愛する。動物を愛でる。全てのものに、心をもって接する。

僕は、そんな人になりたい。

「ふふ、よく覚えてるのね」

夢中で今までのことを話していると、リカちゃんは可笑しそうに笑う。きっと、三日前の僕ならどうして笑っているのか分からなかっただろう。だけど、今の僕なら少しだけ分かる気がした。

「うん、だって本当に人間に就職したいから。でも、僕があまりにも真剣だからって笑うことはないと思う!」

「……あら、少しだけ成長したのね」

そう言うなり、リカちゃんは立ち上がって髪を結いなおす。僕はえへん、と威張ってみた。当然だ。僕は勉強しに来たのだから。リカちゃんが僕の真剣さに可笑しくて笑ったなんて、お見通しだ!

「あなたの成長も見られたし、良かったわ。……では最後に、私からあなたに贈り物をしてあげましょう」

リカちゃんはそう言って時計を見た。時計の針は一時を指していて、外は真っ暗。僕が天上世界に帰るまであと一時間に迫っていた。

「贈り物?」

「ええ。最後に、貴方が知りたいことを一つ、私が答えてあげましょう。何なら望みを叶えてあげるということでもいいわ」

知りたいこと。望み。

心が少しばかり成長した僕に、リカちゃんはそう問うた。いつもリカちゃんの指示に従って教えてもらえる立場が、逆転。僕は、知りたいと思うことを知れる。たった一つだけ。

「何か、気になっていることはあるかしら」

「うん、もちろん」

僕はそういうと、窓から見える夜の公園に視線を移した。僕がずっと気になっていたこと。僕が知りたいと思ったこと。

それは、他でもない。

「あそこで毎日泣いてる女の子のことが知りたい」

リカちゃんは、面倒そうに、だけど仕方がないな、というように頷くと、そのまま家を出た。僕もそれに嬉々としてついていく。僕の、地上で最も気になっていたことを、今から知りに行く。


その女の子は、決まって日付が変わったころに公園にやってきて、ただただ泣き続けていた。二時間ほど泣いたり押し黙って肩を震わせたりしていると、やがて元来た道を引き返していく。この二時間に及ぶ一連の動作を、僕は三日間見た。どうやら毎日来ているようで、リカちゃんはそういえばよく見るわね、と漏らしていた。だけど、以前言ったように関わると面倒だから意識しないようにしていたらしい。人間とは得てしてそういうものだろうか。

リカちゃんが寝てしまったあと、寝ることがない僕にとっては退屈の時間になる。自由に出入りするのは禁じられているし、僕はすることもなく、ただひたすら窓の外を見ていた。つまり、女の子をずっと見ていた。

心が小さい僕でも、あの子は気になった。毎日あの年齢の子が出歩くには不安になるような時間に、ただ泣きにくる。それがとても不思議な事で、そして泣いている彼女は悲しげだけど、何処か美しい。

僕はどうしてか、気づかないうちに女の子に惹かれていたんだと思う。

リカちゃんが公園に入って、女の子を目の前にした今、僕は見えていないくせにやけに緊張して、リカちゃんの背中に隠れてしまった。ああ、どうしてこんなに緊張してしまうのだろう。

「ねえ、そこのあなた」

リカちゃんは極力警戒されないよう、いつもより少しだけ高い声で話しかけた。そういえば、リカちゃんは普通より低い声をしている。だから余計に落ち着いて見えるのかもしれない。

話しかけられた女の子はハッとして、リカちゃんを見上げた。しゃがみこんで足を痛めているはずなのに、それには一切気にも止めず、ただただリカちゃんを警戒の目で睨みあげる。

「別に家に帰れとは言わないわ。あなたが毎日こうしてここに居るということは、この行為が少しでも心の慰みになっている証拠だから。でもね、窓から見えるあなたを放っておけない子が近くに居るの。だから、少しだけあなたのことが知りたいわ」

リカちゃんは女の子と同じようにしゃがみこんで、視線を合わせた。そして、警戒だらけの目に安心させるよう、見つめ返す。

「あなたは小学生かしら」

素朴なそう疑問に、女の子は頷く。警戒はしているものの、これなら答えてもいいと判断したのかな。少しだけ女の子の空気が変わった。

「そう。何年生なの?ちなみに私は高校二年生。そろそろ進路を考えないといけない難しい歳よ」

リカちゃんは自分のことを話すことで、相手を安心させようとしているのだろうか。よくわからないけれど、リカちゃんのその自己紹介に、女の子もおずおずと手を出して、三つだけ指を立てた。

「あら、三年生なのね。学校にもずいぶんと慣れて、少しだけ面倒くさくなる年齢だけど、貴方はどう?」

女の子は首を振る。つまり、学校は面倒くさくない。

リカちゃんは相槌を打って微笑むと、不意に女の子の頬にある涙の跡を拭おうとして手を伸ばした。

だけど、それよりも女の子の反応の方が早かった。

いきなり立ち上がって、後ずさりする女の子は、怯えた様に全身を震わせて、一度だけリカちゃんを睨むと、一目散に逃げていく。公園を出て、やがて姿が見えなくなると、ようやくリカちゃんは茫然としていた手を引っ込めて、肩をすくめた。

「だめね、子供は繊細で難しいわ」

「何も聞けなかったね」

「ええ、最低限のことしか。ごめんなさいね。これくらいのことしかしてあげられなくて」

「いいよ。少しでもあの子のこと知れたし」

「そう?ならいいけど」

もちろん、最後の地上の過ごし方としては少し不満があるけれど、それはリカちゃんのせいではない。僕があの子を気にしてしまって、そしてあの子は誰も受け入れなかっただけだ。僕はそんなものか、と半ば諦めたように納得すると、リカちゃんの家目指して移動した。

先導していく僕を珍しいものでも見たようにリカちゃんは後を追い、やがて家にこっそりと帰ってきた。

最後の終わり方としては、あっけなさすぎるけれど、僕はそれでもリカちゃんと過ごすことに決めた。

だから、地上に帰るまであと二十分を切ったところでこう言うのだ。

「リカちゃん、僕にもっといろんなことを教えてよ」

呆れたリカちゃんは、もちろん僕が帰るまで小声でたっぷりと教えてくれた。

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