第5話 邪悪な心
時計の針が深夜一時頃を指したとき、リカちゃんはベッドからむくりと起き上がって、大あくびをかました。
そして僕の姿を見るなり、首をかしげ、数秒後に納得のいった顔をして立ち上がった。
「おはよう?でいいのかな。よく寝れた?」
「ええ、よく寝すぎて今が実地研修の期間であることを忘れていたわ」
「だからちょっとぼーっとしてたんだ。それより寝癖酷いよ?」
リカちゃんの頭は高校生にはあるまじき爆発具合だった。
僕が指摘するとリカちゃんは手でそれとなく髪を整えて、また大雑把にポニーテールを形作った。女の子が髪にそんな扱いをしていいのかな。コブタ先生に女性というのは外見に特に気を使うと聞いたのだけど。
「そんなに適当でいいの?」
「いいのよ。これから暗いところを歩くのだから、誰も気にはしないわ」
リカちゃんは少々不機嫌そうに言うと、僕についてくるように手で招いて、部屋を出た。両親を起こさないように抜き足差し足でこそこそと廊下を渡り、玄関にたどり着く。
音を立てないように靴を履いてから、リカちゃんは家の中を視線で誰も起きていないことを確認すると、そっと扉を開けた。
神妙な顔をして鍵を閉めると、ようやく緊張がほぐれたように深いため息をついて、僕を見る。
「深夜に家を抜け出すというのは本当に緊張するわ」
「どうして?」
「それは、家をこんな時間に抜け出してはいけないという家庭ならではのルールがあるからよ」
「夜は危ないから?」
「そう。幸せな家庭である私の家で、娘が危険な夜に一人街をうろつく、なんてのはいけないことなの」
「夜っていうのは、そんなに危険?」
僕がそう聞くと、リカちゃんは頷いて、歩き出す。履き慣れたスニーカーを足音立てずに歩いていくリカちゃんは、きっと夜に出歩くことに慣れているんだろうなと思う。
たぶん、僕以外の魂にも授業の一環として夜に抜け出してこうやっているんだろう。なかなか大変な女子高生だ。
「危険な事が夜にだけあるわけじゃないわ。でも、夜に危険なものや、邪悪な心は集まりやすいわ。それを、貴方に見せてあげる」
リカちゃんは不敵に笑うと、ゆったりとした足取りを速めた。黙って歩くその様子に、僕もよくわからないけれど、ついていく。
さっきは家族や絆、信頼関係。
じゃあ、今度はどんなことを教えてくれるんだろう。
「あれを見て」
リカちゃんの家を離れてから十分ほど歩いて、くねくねとした道を行ったり、お店の前を通ったり、何だかよく分からないけれどとにかく無言で進んだ。
そしてようやく彼女が立ち止まったのは、一軒のコンビニエンスストアの裏側だった。丁度自転車置き場になっているところで立ち止まって、そこからこっそりと顔を覗かせて、行き止まりになっているその場所を指さす。
「なあ、聞いてんの?」
「俺たちが金欲しいって言ってんの。そしたら、出す。分かる?」
「先輩は敬えよ、なあ?こんな時間にわざわざお前を呼び出してやったんだ。金くらい出せよ」
「でも、僕もう何も……」
「ざーんねん、嘘は通じないんだなあ」
若い男が三人集まって、背の低い男を囲んで何やら脅しをかけているように見えた。僕はもしかして、と予想してリカちゃんに耳打ちする。これはもしや。
「カツアゲ、ってやつ?」
リカちゃんは声が聞こえるとまずいとでも思ったのか、ただひたすらに頷いてまた前方を見つめる。
男三人はよほど手慣れているのか、中央の背の低い男を蹴り飛ばすなり、ズボンのポケットに手を伸ばして、いともたやすく財布を取り上げる。
「待って!」
「ああ?」
右端の太った男が中央の男の腹を激しく蹴り上げる。男は悲鳴を上げて、財布に手を伸ばすも、その手が届くことなく、涙を流して震えていた。抵抗できないのか、それともする気がないのか。財布を取られた男は、僕には怠惰な行動をしているように見えた。そこで取り返そうとしないのはなぜだろう?どうしてそんなに怯えているのだろう?
どうして、そんなに涙を流しているのだろう?
三人の男は卑しい笑みを浮かべて、財布のお礼とでも言う様に男を一度ずつ蹴って、そのまま去っていく。
リカちゃんはその様子を神妙に見守って、一言も話さない。財布を取られた男も、まさか誰かが見ているとはつゆ知らず、むくりと起き上がると、そのまま駆けだして逃げていった。
僕には何の脈絡もない、ピースを無茶苦茶に繋ぎ合わせただけのようなものにしか見えなかったのだけれど、本当はそうじゃないんだろうか。
リカちゃんは誰も居なくなった突き当りに進むと、僕を見て、もういいよ、とでもいうように目で合図をしてくれた。
そして僕の、二回目の質問の嵐がやってくる。
「ねえ、どうしてあの男の人はカツアゲされてたの?どうして抵抗しなかったの?どうして財布をあげてしまったの?そもそもあの集団の人たちはどうしてお金を欲しかったの?どうしてあの人は泣いていたの?」
「質問は一個ずつ言いなさい」
リカちゃんが若干口元を引きつらせながら、ピシャリと言い放つ。ああしまった。つい勢いで言ってしまった。
リカちゃんは至極面倒くさそうに、だけど一つ一つ丁寧に教えてくれた。その姿は講師として完璧にも思えるほど丁寧で、なるほど長年勤めているだけあるなと思わせるようなものだった。
「ここはいつもあの人たちがカツアゲをしているの。だから、邪悪な心の勉強に持って来いと思ったのだけど、少々あなたには刺激が強すぎたわね」
「ごめんなさい……」
「謝ることはないわ。好奇心があるのはよい事よ。心を手に入れやすいわ。では一つ一つ説明しましょう。どうしてあの人はカツアゲされていたのか。それはもちろん、彼があの集団に逆らえない立場で、なおかつお金をそれなりに持っているからよ」
「立場?」
「ええ。彼はあの集団の後輩で、カモにされていたということね。あの集団は多額のお金が必要になる遊びをしていて、そのお金の出所を彼の財布にしていたの。彼はたぶん、それなりに裕福な家庭だからお金に融通が利いて、なおかつ気が弱かったのでしょうね。それで狙われているのよ。さ、これで質問の一つは答えたわよ」
リカちゃんは目を細めてカツアゲされた男の居た場所を見つめる。その目に映るものと、その感情は、きっと今の僕には理解できないものなんだろう。今だって、カツアゲされたその仕組みは分かったのに、その根本的なものは分かっていない。
「そして抵抗しなかったのは、脅されているから」
「どんな?」
「それは私にも分からないわ。けれど、彼の弱みを握っている可能性が強いでしょうね。例えば、学校での立場を崩すことや、家族に関して。それらを盾に、あの集団は男に脅しをかけて、抵抗したくてもできないというやり方をしていると思うわ」
「あくどいね」
なるほどこれが邪悪な心。先ほど見たリカちゃんの家での光景と、真逆の位置にある人間の汚い場面。確かに見ていて気持ちのいいものではない。それは、僕にも心が芽生えつつあるということだろうか。
「抵抗できない状況に立たされ、財布をあげた。ここまではいいかしら」
「うん、なんとなくだけど」
「それでいいわ。心持たないあなたたちには、ただ目の前のことを理解するより納得してもらうしかないもの。それで、最後の質問の答えだけれど」
「どうして彼が泣いていたのか」
「そうね。では逆に問うわ。貴方はどうして彼が泣いていたと思う?」
質問を質問で返されて、僕は戸惑う。どうして泣いていたかだって?それが分からないから聞いているんじゃないか。でもリカちゃんは有無を言わせない表情で僕を見つめていた。
ううん、と声を出して、僕は悩む。
どうして、彼は泣いていたのか。
分からないなら、彼の行動から推測してみよう。
彼は脅されて、抵抗も出来ずに財布を取られてしまった。
あの集団に蹴りを入れられて、それでも涙は止まらなかった。
最後には彼は泣きながら去っていった。
それは、どうして?
財布を取られたから?
集団に抵抗できなかったから?
実のところ蹴りがとても痛かったから?
僕は五分ほど悩んで、それでも答えが見つからずに考えがぐるぐると巡って、結局思ったことをそのまま話してみることにした。
いつまでも抱え込んでいるよりはずっといい。
「財布を取られて、抵抗できなかったから……?かな」
「あら、いい線いってるわよ」
リカちゃんのその言葉に僕は自然と嬉しくなる。だって、それはつまり、人間の心が少しだけ理解できつつあるということだろう?
それは、僕の目指すものに近づいている証拠で、思わずふよふよとテンション高く揺らしてしまった。
「正解は悔しいから」
「悔しい?それは、財布を取られて?」
「ええ。本当は抵抗したい。あの集団に逆らって、今すぐにもやり返したい。こんなことで呼び出されるような自分は、本当に情けない。何もできない自分が、悔しい。こういうことよ」
悔しい。何もできなくて、自分が情けなくて、悔しい。
その感情は、僕にはないもので、それを感じる人間は、とても凄い事のように思えた。
喜びや嬉しい、なんて楽観的な感情は最低限あるくせに、僕には悔しいなんてものはただの一度も感じたことはない。それこそ、必要性を感じないから知らない、とでもいうように。
世の中にある、その悔しさに僕はどれだけ理解を示そうとしても、きっとすぐには出来ない。
兄弟にご飯を取られた、悔しい。試合で負けた、悔しい。受験に落ちた、悔しい。
僕は、それらものをただの現象として額面通りにしか受け取れない。
何か、重大なものが欠落しているように思えて、僕は少しだけ焦った。
こういった感情がないのは、相当まずいんじゃないか。心を手に入れるのに、必要不可欠なはずだ。
「僕は、何も感じない。彼に共感も、悔しいという感情を理解することも、全然できない」
「そうでしょうね。所詮あなたは機械のような心に少しだけ毛が生えた程度のものだから。でもきっと手に入れられるわ。見て、感じて、体感するの。そして、心はあなたの中で膨らんで、かけがえのないものになるのだから」
「そういう、ものかな」
「そういうものよ。気にしすぎると逆にそれに囚われてしまって、何もできなくなるわ」
リカちゃんはふう、と一息つくと、帰ろう、とでもいう様に手招きをして、来た道を再びたどり始めた。僕はそれを無言でついていく。行きの時よりも、ずっと思い詰めて。
「私も、悔しいわ。あの場面を何度も見ているのに、自分の身可愛さに助けられない、ちっぽけな自分が」
リカちゃんのふとした呟きは闇に消えて、僕を通過していく。リカちゃんも、悔しい。
僕はいつか、リカちゃんと共感できるほどの存在になれるのだろうか。
そうして考えていると、時間の流れは速い。
気付けばリカちゃんの家の前の公園に差し掛かって、僕たちはふと立ち止まってしまった。
最初は僕が気づいて、それからリカちゃんも何か聞こえてくる、とでもいうように立ち止まって公園を覗き込んだ。
すると、夜の公園に小さな一人の少女がしゃがんで泣いていた。
「うっ……ひっく……」
僕とリカちゃんは顔を見合わせて首を傾げる。色んなことを知っているリカちゃんでも、あの少女のことは知らなかったみたいで、そっちに驚いていると彼女はそそくさと歩いてその場を離れる。
僕も慌てて追いかけるけど、リカちゃんの足取りは速くて、そのまま家に帰って部屋の中へと静かに足を踏み入れるまでは、無我夢中で何も聞けなかった。
そしてリカちゃんがポニーテールを下ろして長い髪を晒したころ、ようやく僕も何度目か分からない質問をすることが出来た。
「あの子、どうしたんだろう?」
「気になるけど、関わらないほうがいいわ」
「……どうして?」
「これは、私個人の感情だから申し訳ないけど。私は決していい子ではないの。悪いところも数多くあるわ。その中で、今働いた感情は面倒、というものよ」
「あの子に関わるのが?」
「いいえ、あの子に関わってその後起こりそうなことに」
「リカちゃんはこの先起こることが分かるの?凄いね!じゃあ僕が心の試験に合格できるか教えて!」
「あなたの無邪気さは時に毒ね……。未来を予想するんじゃなくて、予感よ。あの様子を見て、普通じゃないからそんな風に思っただけ」
「へえ……。よくわからないけれど、リカちゃんがそう言うなら」
「ええ。いい子でなくてごめんなさいね。さ、今日の授業はもう終わり。私は寝るわ」
リカちゃんは無理やり話を打ち切ると、部屋の電気を消して、再びベッドに潜り込んだ。僕は窓から見える公園で、暇つぶしに少女の様子を見ていることにした。
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