第52話 魔法の解除

 ゆるやかに、しかし迷いのない速さで、エルダは指を動かしていく。


(けれど、サーシャは生きています)


 ターニャが目を見開いた。


「嘘!」


(いいえ。サーシャは、生きているのです)


 ターニャの瞳を心の動揺が揺らす。対するエルダの瞳は、静かな光をたたえている。


「嘘よ! だって、心臓も、呼吸も止まっていたんだもの! 生きているなんて……言い逃れだわ!」


 声を震わせて、ターニャはエルダを糾弾し続ける。全力でぶつかってくる、ターニャの激しい訴えで、春の空のような穏やかな瞳に影がさした。


(確かに私は、サーシャの時間を止め、体の自由を奪いました。ただ、それは一時的なもの。せめてもと思い、すぐにもとに戻せるような歌をうたったのですが……)


「時間を止めた?」


 黙りこんでいる将軍を気にかけつつ、ボリスが問う。

 ペトロフ将軍は、ひとたび信頼を寄せた相手を疑うことなど、まず滅多にない。だが、この話はあまりにきな臭い。

 ボリスの両眼をまっすぐに見上げて、エルダが頷いた。


(サーシャの身体は、今、時の流れから切りはなされています。あの子がもとに戻っても、自分以外の者にとっては時間が過ぎているのだということに気づかないでしょう。つまり、彼にとっては、私が止めたときから一瞬たりとも時間は流れていないのです)


「それで心臓や呼吸も止まっているということか」


(はい。でも、もとに戻せば彼の時間も流れだし、鼓動も呼吸も戻ります)


「では、どのようにすればサーシャをもとに戻せるというのですかな」

 口を開いた将軍の声は冷静そのもので、ボリスがひそかに危惧したような、エルダへの心証の変化はないようだった。

 安堵のため息を腕組みをしてこらえ、ボリスは『声読みの本』を注視する。


(それは、王太子さまが──)

「ボリス王子!」

 城のほうから、侍従らが少年を抱えて翔けてきた。六本の腕で支えられた身体は硬直していて、まるで、よくできた人形のようにも見える。


「ターニャの言うとおり、貴賓室の廊下で、サーシャが息絶えておりました」


 沈痛な声が告げる。

「廊下に立ちつくしたままで……」

 草の前に横たえられた弟の横にターニャがひざまずく。サーシャは、両腕を天に向かってあげたまま、左足を少し上げている。それは、何かにむかって両手を伸ばしながら駆け寄ろうとしているように見えた。


 姉は弟の頬に手をあて、愛おしげに見つめる。無垢な少年は、彫像のような姿でぴくりとも動かない。あたたかな微風に吹かれても、その艶やかな黄褐色の髪は、一本として動かなかった。


 非難と責詬の目が、いっせいにエルダをとり囲む。冷たい視線に含まれた敵意が体中に刺さるのを感じたが、エルダは懸命に平静を装った。


「僕が何をすればいい、エルダ?」


 困却しながらも、ボリスはそれを表に出さなかった。

 あたりは一段と空気が張りつめている。

 しかし、エルダは気づかないふりをした。


(どうか、サーシャと、名をお呼びくださいませ。王太子さまのお呼びがあれば、すぐにも再び時が流れます)


「名を呼ぶ? それだけで良いのか」


(はい)


 エルダに頷き、ボリスは童僕の傍らに歩み寄った。不信感をあらわにしてエルダを見あげるターニャが、弟の右手を握る。

 ボリスは深く息を吸った。


「──サーシャ」


 呼びかけるが早いか、サーシャの肩ががくりと揺れて、浮いていた左足のかかとが草を打った。


「サーシャ……!」

 ターニャが叫び、あたりがどよめく。

 ペトロフ将軍は大きな吐息を放った。


 もしもエルダの言葉どおりにならなければどうなることかと考えて、心の底では兢々としていたのである。しかし、サーシャは生きていた。エルダの言ったとおりに。


「ああ、サーシャ……!」


 いきなり姉に抱きつかれ、少年はきょとんとした。

 サーシャにとっては、廊下で丸くなっていたマーロウのもとに走りよろうとした瞬間から、少しも時間がたっていないのだ。いつの間にか外に出て、大勢に囲まれているということになる。あれだけの死闘を繰りひろげていた空にも、平和が戻っている。


 情けなさそうに眉尻を下げ、サーシャはボリスを見上げた。


「どうなってるんですか? 僕、マーロウとエルダさまを、イワンさまの御前にお連れしようと思ってたのに」


 ほっとしたあまり、ボリスは涼やかな声をたてて笑った。

「気にするな、サーシャ。ありがとう」

 何故、ボリスに礼を言われたのか解らずに、サーシャは姉の腕の中で首をかしげた。


 エルダに詰責の目を向けていた者たちから、居心地の悪い空気が流れてくる。


 何もかも彼女の言葉のとおりだった。

 彼女は、誰も傷つけはしない。


「……ボリス」


 背後から声をかけられ、ふりむくと、そこには青白い顔をした父王が立っていた。

 驚きの声があがり、皆、いっせいにひざまずく。その彼らの間を歩いてくる城主のありさまに、ボリスは目を疑った。


「父上……!?」


 イワンの銀髪はほつれ、ローブはずれている。


「無事だったのだな」


 それだけ言うと、イワンはひざを折り、くずおれた。

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