第51話 怒りのターニャ

 王子の向こう見ずな行動は人々を驚かせ、動揺させた。城の誰もが彼の無事な姿を捜し求め、何も知らない哀れなターニャは誰にも顧みられなかった。呼べど叫べど助けは来ず、断腸の思いで弟から離れ、侍医を呼びに行くことにした彼女が耳にしたのは、王子殿下がエルダ姫と、ペトロフ将軍と、ウルピノンを伴って帰ってきたという報せだった。


 ──エルダ姫!


 ターニャの脳裏に、彼女こそが諸悪の根源なのだという、ごく自然な発想が浮かんだ。それはターニャの内面で唯一の真実となり、動かしがたい事実となった。その途端、怒りと怨みを同時に孕んだターニャの心のなかには、抑えがたいエルダへの憎悪が人間全体への憎しみ、そして彼女の美しい容姿への憧憬、王子に大切にされていることでの嫉妬などといったあらゆる感情とごたまぜになって、強烈に焼きついた。


 ──赦せない。


 ターニャの暗澹たる心中に、その言葉がこだまする。それは、いちばん単純な気持ちであったから、彼女の混乱した精神を統括し、支配した。赦せない、いや、赦さないという想いに、ターニャは駆けだした。


 長い階段を一気に降り、硬い石の床を踏み鳴らし、いつもなら女官に見咎められるような荒々しい足取りで広間をよこぎる。


 城内を駆けぬけるターニャは、さながら炎のかたまりだった。近づくものを焦がし、邪魔するものは燃やし尽くしてしまう。それほどの勢いで走っていた。


 夕焼けに煌めく温室。そしてその向こうに茂る針葉樹ロンドールの森とは逆の方向に、ターニャは走った。船着場のあたりの人ごみを見て、すぐさま上空へと舞いあがる。そして、白い壁の簡素な建物の前に座りこんでいる王子とエルダ、ペトロフ将軍、ウルピノンの前に、ひらりと降り立った。


 疲れきっていた彼らに水を運んできていた侍従が、驚いて立ち止まる。


「ターニャ?」


 年若い侍女の、憤怒の形相に驚いた侍従の声に、ボリス、エルダ、ペトロフが目を向ける。


 ターニャはつかつかとエルダに歩み寄ると、左手でぐいと胸元を引っぱり、白く滑らかな横面を力のかぎり張った。

「ターニャ!」

 ボリスが叫ぶのも、ターニャの耳には入らなかった。


「弟になにをしたの!? この悪魔!」


 将軍に左腕をつかまれ、ボリスに右肩を押さえられて、ターニャはエルダから引き離された。


「あんたがサーシャを殺したんだわ! そうなんでしょっ? あの子が何をしたっていうの!? なんで殺したのよ。なんで……なんで、なんで!」


 エルダが茫然と、しかし、はっきりと首を横に振ったが、ターニャは引き下がらなかった。


「ひどいわ、弟を殺すなんて! 殺すなんて、赦せない。赦さないわよ、この悪魔! あんたは悪魔よ。リジアの言ったとおり、あんたは魔王の申し子よ!!」


 エルダの顔から血の気が引いた。


 ターニャの剣幕に、数人の侍従が城に戻っていく。彼女の言うとおりなら、サーシャの屍が城内にあるということだろう。おそらくは王子の私室に。口々にそう言葉を交わして飛び去った侍従を横目で見つつ、将軍がターニャの両肩に手を乗せた。


「待ちなさい、ターニャ。どういうことなのか、落ちついて説明するのだ」


 ぼろぼろと落涙するターニャの顔に、激しい憤りがふきあがる。鼻を赤くして、彼女はエルダを睨みすえた。そして、弟のむごたらしい様子を説明しようとしたが、一気に叫んだせいで息が上がり、声も出せない。


 肩で呼吸するターニャを痛ましげに見つめていたエルダが目をつぶり、そして開いた。『声読みの本』を取りだそうと指環に触れる。そのとき、彼女が武器のようなものを取りだすかと誤解したのだろう。そばにいた童僕がエルダに飛びかかった。


「止せ!」


 勇気をふりしぼってエルダに飛びついた、童僕のうちの一人を捕まえて、ボリスが叫ぶ。しかし、体当たりを仕掛けたのは一人ではない。ほかの二人はエルダに飛びつき、彼女を地に倒した。


「エルダ!」


 紅い光。

「わあっ」

「きゃあっ」

 無分別な勇気はあっても、ただの馬鹿ではない童僕は、その光を見て飛びのいた。しかし、エルダの左手から落ちたのは武器などではなく、暗褐色の革で装丁された本だった。


 ボリスが倒れているエルダに手をさしのべる。ペトロフ将軍に叱りつけられて、びっくりした三人の童僕は、将軍の豹変ぶりに息をのんでいるターニャの横を走りぬけて、逃げてしまった。


「エルダ。怪我はないか」


 上半身を起こすと、諦観に似た、悲しげな微笑みを浮かべたエルダは、ゆるゆるとした動きで首を横に振り、『声読みの本』を拾い、ボリスの手を借りて立ち上がった。


 顔中の筋肉をこわばらせ、肩を怒らせているターニャは、もう穏やかに呼吸している。しかし、弁解を赦さぬ表情で、エルダが何かを言うのを待っていた。大勢の前で、本人の口から真実を明らかにさせたかったからだ。


 乱れた金髪をなでつけもせず、エルダは本のページをめくる。


(あの子には申し訳ないことをしたと思っております。それに、貴女の心をこれほど傷つけてしまって。本当に、ごめんなさい。心からお詫びいたします)

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