第35話 温室へ

 温室に行こうと言いだしたのは、サーシャのほうだった。


「ボリスさまだって気にしていらっしゃるんでしょう?」


 言葉につまるようなことを言う。


 サーシャは、滞在を許されてからのエルダとは一度しか会話していない。だが、姉とは何度か言葉を交わしている。そのたびにエルダのことを聞きだしていた。


「だって、姉さんの話だと、エルダさまは、お部屋にいるときは──それっていつもってことだけど──ずっと臥せっていらっしゃるみたいなんだもの。きっと、具合が悪くていらっしゃるんだ」

「ここと地上の空気の違いに、身体が慣れていないだけさ。じきに良くなる」

 ボリスは歴史書から顔も上げない。

「だとしても、地上で咲いているのとおんなじ花を届けてあげれば、気分がよくなって、早く元気になるかもしれません!」


 めげないサーシャの一生懸命な様子にも、ボリスは動こうとしなかった。


 童僕は、ボリスが突然に冷淡になった気がして悲しくなった。

 侍女たちが交わしていた会話を思いだす。


「ボリスさま……」


 ──あのリジアの予言よ。女神セレーヌの託宣に違いないわ。


「ボリスさまは、予言のことがあるから、エルダさまを避けようとしていらっしゃるの?」

「は?」

 驚きにボリスが顔を上げる。


 ──おまえはじきに、すべてを失い、永久に地獄を彷徨う。


 ばつの悪い顔をしたサーシャの瞳が戸惑いで揺れている。


 ボリスは微笑を浮かべた。

「予言など信じてはいないさ。それに──べつに、避けているわけではない」


 避けていた。

 城内がリジアの予言のことで騒がしくなっている今は、エルダに不用意に近づくことは好ましくない。勘ぐられ、害をこうむるのはエルダだ。

 ボリスが魔に魅入られ、惑わされているなどというふうに見られれば、彼女はますます疎まれ、粗略に扱われるだろう。

 これ以上、つらい思いをさせたくはない。


「だったら、エルダさまにも、そう伝えてあげたいです」


 ボリスは側頭部を殴られたような衝撃を感じた。


 予言の内容をエルダが耳にしていたら、それを真に受けているかもしれない。自分の存在が空の民を破滅させるという、あの予言ざれごとを。

 そして、ボリスが予言を信じていると、もし彼女が思っていたら……。それを考えると、心は灰色に曇る。


「……サーシャ。温室には今、どのくらいの花が咲いていただろう」


 本を閉じて立ち上がる。サーシャは扉のほうへ駆けていき、嬉しそうに断じた。

「数えきれないぐらい!」


 思わず笑い声をあげ、ボリスは私室を出た。

 サーシャと貴賓室の前を通りすぎて、階段を降りていく。


 裏庭園へ出たところで、小型の船を霧雲でつつんでいる兵士たちに会った。ドルゴランの竜王にウルピノンのことを伝えに行くため、旅支度をしているのだった。

 出発間際の彼らに二言三言、言葉をかけてから、ボリスはサーシャと温室へ行く道を少し進んだ。その直後に船を隠した雲は舞い上がり、空を進みだす。

 ボリスたちは、雲に手を振ってから温室に向かった。


 薄緑のガラスを張った扉を開けると、甘い香りがふきだす。たくさんの花の香りが、いっぺんにふきつけてきた。

「すごく、いい香り……」

 両目を閉じて、サーシャは温室内の空気をめいっぱい吸いこむ。


「──あ、ねえ、ボリスさま! あの花は? エルダさまにぴったり!」


 白い花をふんだんにつけた低木を指さすと、一目散に駆けていく。

 ボリスがあとを追おうと足を踏み出した瞬間、右側に群生するエニシダの茂みから、黒い影が飛びだしてきた。

 ゆらゆらと垂れ下がる細く華奢な緑の枝が、強引な通行者によって無理に曲げられ、小さな蝶に似た黄色い花が落ちていく。地に落ちた、憐れなその花を、いかにも可愛らしい黒くて丸い足が踏みつけた。


「マーロウ?」

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