第34話 天空の王子

 うまれてはじめて見た、銀色に輝く髪。

 すらりと高い背。

 どんなに沢山の人に囲まれていようとも、すぐに見つけることができる。


 天空城の城主の子息。

 天空の王子。

 つまりはリベルラーシ国の王太子……。


 エルダは一瞬、まぶたをおろした。その裏に、凛々しく清爽な、整った顔立ちが浮かぶ。


 泣きたくなるほどの微笑のやさしさ。

 意外にも落ちつきを与える、誠実な怒気。

 強くて穏やかな、それでいて情熱を燃やしている、紫の瞳。それは、どこまでも澄みきっている。邪悪など、つけいる隙もないくらいに。


 ──そして……。


 無意識に流れた嘆息は、つめたい窓のガラスに当たって、その表面を流れた。


 すがりついてしまいそうになる、逞しい腕。

 広い背中。

 書物のなかで見つけた、まだ見ぬ知識に熱中する、あのまなざし。


 気がつくと、エルダはボリスのことを考えている。イワン王に招かれて晩餐の席に向かう途中、通りすがりにかいま見た、図書室の椅子に座って本を読んでいた彼のことを。


 エルダは窓ガラスに指をあて、目を閉じ、顔を上に向けてから開いた。

 寂寥感をさそう真っ青な空に白い雲が流れる。空のはるか高みにありながら、なんてゆるやかな風だろうか。


 火球石が気圧変化を起こしていることをきかされても、エルダにはよく解らない。

 ぼくにもよくわからないんだ、と笑った、あどけないサーシャの顔を思いだす。


 ──あの子はいつも、王太子さまのお傍にいられるのね……。


 誰に咎められることもなく。

 何に阻まれることもなく。


 やがてターニャが戻ってきたとき、エルダは寝台に横になっていた。そして、マーロウの姿が見えなくなっている。

 エルダの顔はターニャが見ても青白く、生気がなかった。


「ご気分でもお悪いのですか」

 そう尋ねると、エルダはかすかに頷いた。

 ターニャの苛立ちが、胸を貫いてきそうだ。

「猫ちゃんはどこにいますの?」

 エルダは、ただ首を横に振った。マーロウ自身が心を閉じたとき、エルダにも彼女の居場所はわからない。ターニャの唇から大きなため息が流れでる。


「では、あちらのお部屋にお食事を置いておきますわ。エルダさまは……ああ、そうでしたね」


 エルダは魔法の袋から現れる柘榴しか食べられない。それは、1日にふたつしか現れないが、エルダにはそれで充分である。だから、イワン王に招かれた晩餐でも何も口にしていない。エルダは恐縮して詫びたが、イワンはあたたかい微笑を絶やさなかった。


 ターニャの早口がエルダを回想から引きずりもどす。

「お休みなさいますなら、私は下がらせていただきます。なにかありましたら、小間物部屋におりますから」


 侍女たちが、空いた時間に裁縫などをして過ごす小部屋。彼女らが小間物部屋と呼ぶ、その部屋は、この貴賓室と同じ階にある。エルダはサーシャから、そのことを聞いた。


 エルダが頷くのをかろうじて確認できるだけしか待たずに、ターニャは部屋から出た。

 呪いなどという恐ろしいものにとりつかれた人間の姫も、おかしな獣も、ターニャの薄れかけていた不快な感情を呼び覚ます。できるだけ、離れていたかった。


 その気持ちをおぼろげに察しているので、エルダは彼女に語りかけるのを避けている。たとえ避けなかったとしても、気持ちのいい会話は望めないだろう。ターニャは、おそらくエルダを憎んでいる。


 悲しみに我をなくすのを恐れたエルダは、ぎゅっと強く目を閉じて首を振った。恐怖をふりはらうと枕の上に頭をのせる。しかし、とても眠れなかった。


 もともとエルダは深い眠りにおちたりなどしない。

 眠っているとき、無意識に声を発してしまう恐れがあるので、寝入らないようにしているのだ。そのために、できるだけ長い時間、横になって身体を休めなければ、疲れ果てて意識を失ってしまう。

 気を失ってはいても、絶対に声を発さないという保証はない。

 だから、それを避けるため、呪いを受けてからは決して熟睡しないように気を配っていた。


 よって、このときも、響きが均一にそろったノックの音に気がついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る