虹水晶と星の洞窟

第33話 ターニャ

 口のきけない人間の世話をやくのは、想像していたよりも苛々するものだ。


 なにかを尋ねたとき、それが首を横か縦に振るだけで通じるたぐいのものであればよいのだが、そうではなく、細かい指示を必要とするような場合は、本に文字が浮かんでくるのを傍で待っていなければならない。それも、ときにはやりかけの仕事を中断して、紙面に現れる文字を読むことにのみ目を向けなければならないのだ。


 エルダにいささかも好意を感じられずにいるターニャには、そういう意思の疎通が、なんとも面倒なのであった。


「エルダさま。そろそろ猫ちゃんのお食事を運んでまいりましょうか」


 表面上は敬意を保ってはいる。しかし。


 ──この気味悪い獣。


 エルダの愛猫マーロウを、ターニャは内心ではこう思っていた。


 マーロウは、たしかにエルダの言うように賢いようだった。

 いたずらや粗相は決してしないし、エルダの頼みで用意された太い木の幹以外で爪を研ぐこともない。しかし、なんとも説明のつかないことがあるのだった。


 まず、竜や動物などとも会話できる天空人であるターニャに、ひとことも口を利かない。

 地上の獣であるということもあって、最初はそれほど不思議にも思わなかったが、どうやら、ターニャの声すら耳に入れようとしていないようなのだ。それでありながら、人間であるエルダの言葉には絶対服従だ。しかも、近くにいなくてもそうなのである。


 主の傍を離れることは結構あったが、彼女がその帰りを告げると、ほどなくして必ず戻ってくる。


 一番不思議なのは、マーロウが姿を見せないでいるとき、エルダにはどこにいるのかが分かるらしいことだった。

 エルダの示した場所にマーロウがいるという経験を何度かつむと、ターニャはマーロウを“気味の悪い主人をもつ気味の悪い獣”とみなした。


 膝の上で丸くなっているマーロウの背中を撫でながら、エルダが頷く。


「では、少しお待ちを」


 エルダが貴賓室にいるかぎり、部屋の扉の外には近衛兵が控えているわけだから、彼女から離れてもよい。そう言われたターニャは胸をなでおろしていた。

 胡乱な異邦人の傍に四六時中いるなんて、いくら恋しい王子のためでも、耐えがたいことだ。


 ウルピノンの病室に行く以外に、エルダは部屋から出ようとしない。それがせめてもの救いである。いろいろと理由をつけさえすれば、ターニャは頻繁に彼女から離れられるのだから。


 城の調理場に向かうため、ターニャが部屋から出ていくと、エルダは深い息をついた。

 押し殺した敵意につつまれることから解放され、すこし気が安らぐ。そして、首を上げた愛猫に向かって思念をこらした。


(マーロウ。やっぱり私、ここに長居はできないみたい)


 三角の顔がエルダのほうを向く。黄金の瞳が細くなり、愛しげにエルダを見上げた。

 魂を結ばれたという絆が、ふたりの心を繋いでいる。互いの思念は、ほかの者には分からない言葉になって行き交うのだ。


(ありがとう)


 エルダは微笑み、窓の外に目をうつした。

 マーロウが、彼女の膝から降りて寝室に入っていく。その後姿を一瞥してから腰を上げ、窓の前に立って外を眺めた。


 窓の下には城の裏庭園が開け、果樹をふくんだ木々の向こうには、見事なほどに透明な、空の青と樹木の緑を映した温室が建っている。

 そこには、地上から運ばれてきた植物が栽培されているのだという。

 陽光を浴びた薄緑のガラス壁は、このうえもなく美しかった。


 そして、温室にのびる道を通る幾人かの中に、エルダは彼を発見した。

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