第32話 リジア
「リ、リジア殿」
狼狽した町長と、怒鳴りつける準備を終えた将軍を手振りで制し、イワンは老女の次の言葉を待った。
そう長くは待たなかった。
しわがれた叫びが、広場中に響くほど張り上げられる。よくもそんなに大きな声が、こんなに老いて萎びた体から出るものだと思うほどの声量だった。
警察隊長が顔をしかめ、それでも何とか沈黙を保つ。黙って聞くのは相当の努力を要した。
「その娘は『滅びの使い』じゃ! この国を破滅させる、魔王の申し子! すぐさま追い出さねば、いいや、神殿にその血を捧げねば、空の民は滅び去るじゃろう!」
これほど禍々しい声を、ボリスは今まで、聞いたことがない。
しわくちゃの腕がこぶだらけの杖を上げ、その先をボリスに向ける。赤みがかった大きな瞳が強烈な恐れを含んで彼を注視した。
「天空の王子よ、おまえは魔に魅入られた。
おまえはじきに、すべてを失うだろう!
すべてを失い、永久に地獄を彷徨う。そうなりたくなくば惑いを捨てるのじゃ!」
「無礼者! 殿下になんということを」
ペトロフ将軍も老女に負けないほどの声量だったが、衝撃の度は彼女の比にはならない。ボリスは初めて、生理的な恐怖を感じた。
「娘を保護してはならん! さもなくば、リベルラーシに幸いはない。娘は邪悪を呼び、安穏を追い払う。もはや娘を生かしておくわけにはゆかぬ!
神に差しだすならば、今なら間に合う。
老女は息を切らし、両肩を揺らしながら予言を止めて、国王を睨みすえた。予言と知識の女神、セレーヌの加護を得ていると言わんばかりに、自信たっぷりだ。
将軍が腕を広げて国王を庇っているのにも老女は関心がないようだった。彼女は、ただ国王の魂に攻撃を加えていた。しかしそれは、ボリスの心を著しく傷つけた。
ボリスは自分の前に上げられたソーニャの左腕をおろし、己の能力に妄信的な占術師にひとこと言ってやろうと口を開いた。しかし、それは彼の咽喉をせりあがる途中で止められてしまった。イワンが穏やかながらも毅然として応えたのだ。
「リジアといったか、大いなる占術師よ。そなたの不安、よく判った。もっともなことだ。その不安と恐怖をかかえておるのは、そなただけではないだろう。だが、しかし、娘を生贄にすることはできぬ。それは、神に委ねるとはいえぬだろう。
神ではない者が利己的に他の者の命を奪うことは、決して許されない。それは殺人であり、大罪だ。神に捧げるのではなく、神から奪う行為となる。
私はこの国の王だ。
民を護るのは私だ。
この身に与えられたもの、すべてを要して護ろう。だが、この国のものの命を護るために、別の命を奪うことはできぬ」
誇り高い声色が空気にしみとおり、まるで大陸中に届くように思われた。全員が畏敬の念に打たれ、予言者・リジアの信奉者たちまでもが剣呑さを解いた。
命を尊ぶ国王の言葉に、真正面から堂々と反論できる者はいなかった。
神秘に心酔し、女神の権威にのみ礼を尽くすリジアですら、何ひとつ言葉を返せない。
「……それでは本当に、我々には危険はないのですね」
リジアの様子を横目でちらちら窺いつつ、町長が両手の指先を動かしながら言った。目まぐるしいほど早い、その動きを見て、ペトロフ将軍の目が不機嫌そうに細くなる。
彼の隣では、ナボコフ大臣の指が、やはり落ちつかずに動いていた。
「リジア殿によれば、その娘、あらゆるものを席巻する魔力を持つとか。しかも、それは誇り高き竜までも手中に収めるまでに強力なものであると……。それでも恐れるなと仰せですか」
町長の様子は、最後の抵抗をする敗北者そのものだ。しかし、窮鼠のように必死だ。
「将軍閣下。いかがです」
ペトロフが答える前に、用心深く、誤解のないよう、ソーニャは言葉を選んだ。
「人間の姫に関しては何の危険もありませんわ。彼女は友好的であり、きわめて非力です。彼女の魔力は万能ではないのです。その上、この地にいるかぎりは身の自由に制限を設けることに同意すると、誓約を結んでいます。
ここに誓約書もあります」
マントのなかからエルダの署名がなされた書類を取りだし、恭しく国王に差しだす。イワンはそれを受け取ると、くるくると広げて一読した。ボリスが目を背ける。
読み終わったイワンが、左隣にいる将軍に書類を渡す。ペトロフはエルダの名前だけを確認すると、すぐに大臣に手渡した。
「では、私が……いえ、町長。こちらに。あなたに読んでいただこう」
ナボコフが手招きする。
それに応じた町長は、彼の隣から首を伸ばして書類を覗きこんだ、ルードの内から片眼レンズをだし、右目にあてる。
「えぇ……姫は貴賓室に住まうこととし、この部屋の前には常に……」
詠じるように順に朗読し、すべての項目にエルダの承諾があるのを確認していった町長は、ようやくあからさまな警戒をほぐした。
警察隊長も強張らせていた頬を少しだけ緩めている。しかし、リジアの全身から放たれる苛立ちや憤懣はおさまらず、時間がたてばたつほど激しく、強くなっていくようだった。
占術師は、もはや杖にすがる必要すらないほど両足に力をこめており、あたりに湯気を立ち上らせることもできそうなくらい、その怒りを沸騰させていた。
地獄の女王もさぞ顔色ないだろうと思わせるような、低く震えた声が凄む。
「いいだろうとも。私の警告に従わないのなら、この国は破滅から免れぬわ。
そのときになって思いだすがよい。自分たちの愚かしさを。
魔力の威力を信じぬものたちは、それに弑されるであろう」
そして、彼女は声高く予言した。
「国王よ。おまえが命と引き換えに護ることになるのは、国民ではない」
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