第36話 邪悪なる幻影
「エルダさま」
寝室の扉が開き、入ってきたのは、深緑のスカートだった。
「ご気分はいかがでございますか」
心からエルダの身を案じる声色が降ってくる。
低めの柔らかな音は、ふくよかな響きをしている。
「まあ……! 真っ青なお顔ではありませんか。なんてこと。ターニャはどこです?
エルダさま、しっかりあそばしませ」
顔色を変えて飛んできた女官に額から熱の加減を探られ、エルダは驚きに身動きできなかった。これほど心配されるのは、父が魔道に堕ちて以来、初めてである。
「まあ! なんて冷たいこと。お寒くありませんか。すぐに、もっと厚い毛布をお出しいたしましょうね。ああ、それよりも、温かいキュルクを飲ませてさしあげることができれば良いのに……」
最後のほうは独語のようだった。
女官は急いで棚を開け、柔らかそうな白い毛織物を取りだして広げた。ふわふわとしたそれをエルダの身体にかける。鼻をすっとさせる虫よけの香りがした。
見た目どおり、とても柔らかい。マーロウの毛皮と同じくらいの滑らかさだ。
エルダの身体を、頭以外はすべて毛織物で覆った女官は、満足げに微笑んだ。その笑顔は慈愛に満ちている。ターニャとは、まるで逆である。
「さあ、これで大丈夫でございますよ。けれど、念のために侍医の頭さまに診ていただきましょうか。お風邪になってはいけませんし」
恐怖と懊悩で歪んでいたフョードルの顔を思いだし、エルダは胸が縮れるような感覚に襲われた。あんな表情は、できるなら二度と見たくない。
エルダは女官の手を握って首を横に振った。
察しの良い女官はすぐに彼女の意図を理解したが、診察の必要性については決断を覆すつもりはなかった。
人間の姫は、ひどい顔色をしている。まるで死んだ者のような、灰色をおびた青白い肌だ。
「わかりましたわ、姫さま。侍医の頭さまをお呼びするのはやめましょう。ですが、そのお顔の色は見過ごせませんわ。ご心配なさらず、安静にしてお待ちくださいな」
やさしく細い腕を取って、毛織物のなかへ戻しながら、彼女は低くささやいた。
(待って)
エルダの強い心の訴えを笑顔で退け、彼女は寝室から出ていった。
不安に押しつぶされそうになりながら、エルダは女官の後を追おうとして身を起こした。途端にひどい吐き気とめまいに襲われ、額を敷き布に伏せてしまう。どうやらマーロウが部屋を出ていってから、感じていたよりも、ずっと具合を悪くしていたらしい。
──ちがう、これは……。
目を強く閉じて、苦痛に耐えた。
──お父さまの……。
たちまちエルダは幻影に捕まった。
暗闇のなかに白い小さな花が咲いている。
一面に咲くヤブイチゲは、まるで白い絨毯だ。城の庭にあるブナの林に群生しているそれと、そっくり同じに。
「──ド……」
──なに?
闇の向こうから懐かしい声がする。
あたたかく、優しい声。
それは、心細さなど一瞬で払拭してしまうほど力強い。
「……リード。──帰っておいで」
──お父さま?
白い花びらがいっせいに舞った。
花と風の渦の奥から、父の声が響きわたる。
「大丈夫だ。さあ、おいで。おまえは帰ってこなくては。そこはどこだ? 迎えに行こう。さあ……おまえの……」
──わたしの、
「エルダ!」
唇を開いた瞬間、エルダは目を覚ました。
身体じゅうが燃えるように熱い。指先に炎がともっているようだ。何をしようとしたのかに気づき、戦慄が全身を走った。
声に出して、自分の名前を言おうとした。
耳に残る古い呪文。
父親に心を攻撃されたのだ。
結界で護られた、この大陸に保護されているというのに、彼の魔法は、わずかながらもエルダに届いた。父と娘の血のつながりが、魔力を渡す橋になるのだろう。
結界を通り抜けられるくらい、親子の血は濃い。
危ういところで、誰かに止められた。誰かの呼び声に目を覚ましたからである。
──誰の?
顔を上げ、エルダは悲鳴を上げそうになって両手で口をふさいだ。
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