第30話 実り袋とエルダの死
(父の言いつけなのです。これ以外のものを口にすれば、私は病が再発して、遠からず、この世を去るでしょう)
ボリスは驚きのあまり組んでいた腕を解き、ぽんと壁から離れた。
ソーニャの眉が片方は上がり、片方は下がる。
ターニャとエリンは言葉もなく、エルダの顔を見つめた。
自らを滅ぼす方法をいともたやすく教えた彼女は、平然とソーニャの反応を待っている。
「そうですか。では、これは……」
ソーニャが袋に手をのばすと、それよりも早くボリスが近寄って、しっかりとつかんだ。
「これはエルダ姫がもつべきだ」
父親から譲りうけた、断固とした声と表情には、誰の反駁をも許さない迫力がある。その眼光の鋭さに、ソーニャでさえも圧倒された。ふだんは柔和で穏やかな紫の瞳であるだけに、幼いころから彼を見てきたエリンも驚く。
しかし、エルダの手がするりとボリスから袋を取ってソーニャにさしだした。
「エルダ姫?」
目を瞠るボリスにエルダは微笑む。思いもかけない彼女の行動にうろたえる王子を見て、エリンが動いた。
「姫さま、いけません。これをさしだすことがどのようなことか、わかっておいでなのですか」
エリンに腕を押さえられたエルダは、彼女の青緑の瞳を見つめながら首を縦に振った。
「どうして……」
エルダは右手に『実り袋』を乗せたまま、もう片方の手で『声読みの本』を持ち上げた。それをエリンが受けとって開く。
(そのほうが私にとっても安心です)
短い言葉に、全員が納得できなかった。
エルダが生きるためには、柘榴を食べることが必要だ。そして、それは唯一の方法でもある。ほかのものでは彼女の命を繋げない。ならば、それは彼女の命そのものではないか。そんなものが、彼女ではない者の手に渡るとすれば……。
──冗談じゃない。
父親の支配から抜けだしたばかりで、また何者かに支配されようというのか。
ボリスには理解できなかった。
大体、それはもしかしたら、やっとのことでエルダが所有するに至ったものかもしれない。父親の手から一緒に逃れてきたときに。
「しかし、エルダ姫」
ソーニャの前に割りこんだボリスが、さらに言い募る。
「これを握る者は、つまり、あなたの」
(王太子さま。私は──)
その言葉は、叫びによって遮られた。
「ボリスさまぁあ!」
扉が勢いよく開いて、冷たい風とともに、ターニャの弟が駆けこんでくる。
彼の顔からは平素ある明るさが消えており、全力疾走によって上気していた。
「サーシャ?」
「どうしたのです、サーシャ。そんなに慌てて。扉が痛むでしょう。体当たりでもしたのではないでしょうね」
エリンの厳しい声を、サーシャは全く気づきもしない様子でやり過ごした。事実、彼にはそれどころではなかった。
「サーシャったら、真っ青よ」
姉のさしのべた両手をすりぬけ、彼は主の腕にしがみついて、引っぱった。
「ボリスさま! 急いで来てください! いますぐ」
「待ってくれ、サーシャ。ちゃんと説明してくれないか」
身をかがめ、引きずってでも連れて行こうとする童僕の両肩をつかみ、ボリスはもう一度、同じことを繰りかえした。
「説明してくれ」
「……!」
もどかしさに、サーシャが地団太を踏む。
無作法を叱ろうとしたエリンの横から、黒いものが飛び出した。
サーシャの後から部屋の中に入ってきたらしい。それは力強い跳躍でサーシャを飛び越え、ボリスの肩に着地した。
その姿は、エルダが『声読みの本』に映した猫のもの。
エルダの黒猫、マーロウだった。
黄金の瞳がエルダの碧眼と合った途端、彼女は電流にあたったように身体を硬直させ、『実り袋』を取り落した。
エルダの白い顔が灰色に変わっていく。と、彼女は一目散に部屋から飛びだした。
「あ、だめっ! エルダさま!」
「姫!」
サーシャとソーニャの声が重なる。
考えるより先に、ボリスは駆けだしていた。
マーロウの爪が肩に食いこんだが、彼は痛みも感じなかった。廊下の途中で近衛兵とソーニャに押さえられたエルダに追いつく。
「エルダ姫!」
エルダは、折れそうなほど細い身をよじって、もがいている。ボリスの肩からマーロウが飛び降りた。しなやかな黒い毛の塊が、一直線に主人のもとに駆けていく。
「ボリスさま、エルダさまを行かせちゃだめ! おばあさんに殺されちゃう!」
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