第29話 令書

「ペトロフ将軍は来ないのか?」


 ソーニャを見たボリスは、腹立たしそうな声音で尋ねた。彼女は甲冑を鳴らしながらエルダのほうへと歩んだ。


「父は所用がございまして、ご無礼をいたします。私が代理にと遣わされました。

 令書はお読みいただけましたでしょうか」


 なるほどと思いながら、ボリスは頷いた。

 エルダの滞在を許す条件を取り決めて彼女に承知させる。それに関わっていないソーニャには、彼も不服を訴えることはできない。


 ボリスは初めて、ソーニャの理性的な態度を冷淡だと感じた。


「エルダ姫。令書の内容に異存はおありですか」

 ソーニャの質問を受けると、エルダは膝の上から『声読みの本』を取りあげ、ページを開いた。


(ございません。すべてに服属いたします)


「結構です。では、確認をいただけますか」

(はい)

 ボリスは目をそらした。


「私が読み上げます内容に諾意をおもちであれば、その下にご署名をくださいますよう」

(わかりました)

 エルダの手にペンが握られる。

 神妙な顔をして、ターニャはそれを見つめた。


「それでは、まず、この貴賓室の前には常に2名の近衛兵を置くこととする」

 エルダは名前を書きこんだ。

「あなたは貴賓室におられる以外には、必ず侍女と近衛兵を付き随えることとする」

 ソーニャがすらすらと朗読していった。


 いかなる理由があろうと、歌を歌わないこと。

 『宝殿指環』のなかにある道具をすべて見せ、その一部を城主が差し押さえることに同意すること。

 許可なく城外へ出ないこと。

 地上との連絡は取らないこと。

 日没から日出までのあいだは貴賓室に留まること。

 国王陛下、あるいは将軍から召喚を受けた場合、これを拒否しないこと。


 エルダは、ソーニャが読みあげるそれらのすべてに、躊躇なく誓いの署名をした。そうしてすべての項目に名前を書きおわると、微笑を浮かべて書類をソーニャに手渡した。

 ソーニャは唇だけで笑みを返しながら恭しい手振りでそれを受けとって手早く巻き、マントの内側にしまう。


「では、エルダ姫。恐れ入りますが、指環から道具をすべて出して、見せてください」

 エルダは頷いて、指環をぐるりとまわした。



 ──── † † † ────



 とある国。とある町。

 そこには魔女が住んでいる。

 町の人々によると、彼女は少なくとも150歳を過ぎている。しかし、正確な年齢は誰にもわからなかった。


 魔女は邪悪な心をもっているのが普通だが、彼女はどうしたことか、誠実だった。

 町の人々は彼女を敬い、その力の恩恵を受けている。彼女は、住民と平和に共存していた。


 魔女には、夢の中で未来を予知する能力があった。

 彼女はたびたび、いずれ現実に起こることを夢で見ていた。

 それは彼女の意思とは関係なく、望みにも左右されない。

 長く、過酷な修行によって夢を途中で終わらせることはできるようになったが、見たい未来を選ぶことはできなかった。


 それがどこで、どのくらい先の未来なのか。

 彼女には判らないことのほうが多い。しかし、少しでも未来が見えたなら、その続きも見ることができた。


 あるとき、彼女は一国が滅ぶ夢を見た。

 それは1人の誠実な者によってひきおこされた。

 偉大なるものは命を落とし、清純なるものは愛を失い、忠良なる者は自らを葬られた。


 魔女は、その悲劇の原因を正確に理解していた。

 そして、どうすれば破滅を回避できるかも。

 しかし、魔女には、己の力が及ばぬことも判っていた。

 人には分というものがある。それは、本人の努力や熱意では変えられない。魔力をもつ彼女にも、それは同じだった。


 それでも何もせずにはいられない。


 未来に生きる者たちを、少しでも邪悪から遠ざけることができるなら、可能なかぎり、力を尽くさねばならない。


 ──会わなければ。


 魔女は、暗い部屋の中から出ていく決意を固めた。



 ──── † † † ────



 エルダが『宝殿指環』から出した道具は、『声読みの本』と『実り袋』のほかに魔力を具えたものはなかった。


 ソーニャはエルダから、あの大きな竪琴と横笛を取りあげると、つぎに望遠鏡を手にした。ためしに覗いて、その精度に驚く。


「これも、お預かりします」

 ソーニャは望遠鏡を袋に入れた。


 指環からオルゴールを出しながら、エルダは頷く。新しく出されたそれも、ソーニャは回収した。


 ボリスの表情が刻々と険しくなるのを見て、エルダは弱々しげに微笑んでみせた。それがあまりに申し訳なさそうな笑みだったので、彼は慌てて眉間を緩めた。


「この袋は、何が入っているのですか」


 茶色い袋を手にとって、ソーニャがエルダに視線をおくる。


(それは『実り袋』です。どうぞ、開けてみてください)

「よろしいのですか」


 確認の響きが薄いのを敏感に察したエルダが手をのばす。

 そっと袋をソーニャの手から取った彼女は黄色い紐を解いて開き、中から丸いものを取りだした。


(これは柘榴という名の果物です。この袋は1日に2つ、この実を生みだします。そして、私は、この果物しか口にできません)


 白い綿のようなものの中に赤い粒が詰まっている、茶色くまるい果実を、ソーニャは凝視している。


「何故です?」

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