第8話 美しい娘

 ボリスの背後の幕の向こうから、いつも重症の患者を抱えているとでもいうような陰鬱とした声が詫びた。幕の端が上がって、鼻の上に二つのレンズを乗せた陰気な顔が現れる。侍医の頭、フョードルだった。白髪まじりの黄褐色の髪が、広い額に力なく垂れ下がっている。


 つねに哀しみと不安のなかにいるようなフョードルの横には、立派な口ひげをはやした筋骨たくましい武人が堂々たる姿勢で立っている。ソーニャの父親、天空城の将軍である。


「仰せのように、例の者を運んでまいりました、陛下」


 自信のない口調だ。隣に立つ背筋の伸びた将軍が気弱なフョードルに鋭い眼光をおくる。しかし、それに気づいてもフョードルは縮こまったりしなかった。普段から充分に、縮こまっているからだ。

 対照的に、ペトロフ将軍はいつだって自信満々で、堂々としている。彼は国王の面前であっても、その誇りに満ちた態度を揺るがせない。


「侍女たちの看護部屋から運んできた、簡易寝台の上に寝かせましたが……」

「ああ、かまわない」

 椅子から立ち上がって、目で問いかけてくる息子に気づき、イワンは微笑を浮かべた。ソーニャに手で合図を送る。すると、彼女は幕を持ち上げて、横に大きく引いた。謁見に来た者たちが集まる、広い空間が開ける。


 声を失ったボリスが、ゆっくりと歩き出す。


 階段をおり、謁見の広間に降りたったボリスは、ぼんやりと木製の寝台に横たわる娘を見つめた。


 淡く輝く金髪は、天空人の燃えるような黄褐色とは全く違っている。


 フョードルを除いた全員が寝台を囲む。


「霧雲の中で失神しているのを、ソーニャが保護した娘だ」


 父親の短い説明は、ボリスにとって何の意味も持たなかった。


 豪華とはいえない寝台に横たわる女性は、まだ少女といっても良いくらいの顔つきで、生まれる場所を間違えたとしか思えないほど美しかった。神族の光で彼女を包んだなら、それだけで女神に見えるだろう。


「見て分かるように、彼女は人間だ。だが、天空人でも神人でもない、まして神でもない者が、どうやってこれほどの上空にまで来られたのか。それが皆目、わからぬ」

 ボリスは、意識のない少女の美しさに少しも心を打たれている様子のない父に驚いた。


「おまえも承知しているだろう。我々は人間という存在に対して慎重にならねばならん。140年前の天空人狩りから皆が助かったのも、この大陸が人間には来られない高度の空域にあるからだ。それなのに、この娘は、ここに現れた。

 これは我々、空の民にとって凶事だ。

 この娘がどのようにして来たのか、あらゆる書物を読んでいる、おまえになら解るかと思うたのだが、ボリスよ。どうだ?」


 ボリスは、国王の瞳の真剣さを見ることはなかった。彼は目の前に横たわる娘から目が離せないでいる。そのことに、父親はすぐに気づいた。驚きつつも苦笑を浮かべ、息子の反応を待つ。


「……この髪の色は、突然変異ではないのですか」


 長い沈黙の末、ようやくボリスはそれだけ言った。それまで控えていたフョードルが、寝台に近づく。

「それはありえません、王子殿下。文献によれば、我々の髪の色は、この17000年間、ずっと同じ色です。それ以外にはなりえないのですよ」

「それは僕も読んだが……。だが、生物は進化していくものだろう? この空の地に昆虫が見つかったのは16500年前だというし、鳥が見られるようになったのは、15800年前だ。それ以前にはどちらもリベルラーシにはいなかったと文献にある」

 いかにも動物を愛するものの喩えだった。


 フョードルの脳の学者的な部分に、可能性という文字が浮かぶ。


「はあ、まあ……そう仰られますと否定しきれませんが……」


 すると、学識は持たないが、頭脳は娘のそれと同等に優秀だといえる将軍が口を開いて、非常に的を射た指摘をした。


「この服装は天空人のものではありませんぞ、王子殿下。それに、このマントについている毛皮も、リベルラーシでは手に入らない動物のものに思われますな。これほど柔らかく、毛足の長いものは見たことがありません。おまけに、指環には見たこともない石がついています」


 衣服や装飾品などまったく見ていなかったボリスは、自分の発言の愚かしさに気づいて赤面する。

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