第6話 ソーニャ
ボリスには、まだ気象を操る力がない。そして、リベルラーシに異変が起こったとしても、警備隊隊長が自ら報せてきたことは、これまで一度もなかった。
「エリン。ソーニャの用件について何か知っているか?」
母代わりの女官は、穏やかな口ぶりを崩さなかった。
「いいえ、何も存じません。たしかに妙でございますわね。けれど、殿下がお気になさっているような内容ではないかと思われますわ。でなければ、私にまず、事情が伝わってまいりますもの」
「……それもそうだな」
顎から手を離したとき、ボーイソプラノの声が彼を呼んだ。
「ボリスさま」
サーシャの後ろに長身の女性が立っている。鎧で身を固めているが、あふれる気品は少しも損なわれていない。むしろ、金属製の防護服は彼女の華麗な雰囲気を高めているようだった。
気位の高いまなざしが、ほんの一瞬ボリスに注がれる。そして、すぐに長い睫毛が慎み深く伏せられた。
軍人でありながら貴婦人でもある、玲瓏たる隊長は、見るも典雅に敬礼した。その動きには、一分の隙もない。
「王子殿下におかれましては、ご機嫌麗しく、拝謁のお許しをいただき恐悦至極にございます」
いつもながら、余裕に満ちて、感情の窺えない怜悧な声だ。しかし、ごくわずかに平素ない困惑らしき響きが感じとれたボリスは、背筋を緊張させた。
ソーニャほど心を隠すことに長けていないボリスの表情の変化には、エリンも、サーシャも気づいた。気づいたものの、何が彼を緊張させたのかがわからず、結局は黙っていることになる。
ソーニャが礼を失さない程度に早口となった。
「ご報告すべきことがございます。事の次第によっては、ご指示を仰ぎとうございますので、謁見の間へお越しくださいますよう」
「そんなことなら、何故、自分を通さずに?」
というエリンの疑惑の視線を無視して、ソーニャはボリスを見上げた。その意味を察しかねないでいながらも、ボリスの心は不吉な予感に曇っている。
地上で気象が荒れだしたくらいでは、ソーニャが自らボリスのもとに来るはずもない。なにか大変なことが起こっている。そして、それをボリスにも予期させようとしているのだろうか。
ボリスは左手を本から離し、表紙を閉じた。
「……すぐに行こう。エリンはもう下がってくれ」
エリンが不満をおしころす。
「はい、殿下」
女官のエリンは、そうやすやすとボリスに逆らったりしない。それをよく知っている彼は、それ以上エリンには何も言わなかった。彼女が退出すると、今度は童僕に目を向ける。
「それから、サーシャ。僕が戻るまで、部屋から出ないように。いいね」
神秘的な紫の瞳に見つめられ、サーシャはしぶしぶ頷いた。彼は、女官と違って自分の意思に正直だ。しかし、こういうときのボリスの目には、逆らいがたい光がある。
サーシャは謁見の間に掛かっている大きなタペストリーに隠された秘密の通路からこっそり話を聞こうと思ったが、見つかったときに悲しむだろうボリスの顔を想像して、とりあえずはやめることにした。
ボリスが椅子から立ちあがって近づくと、かしこまっていたソーニャも膝を上げた。細身の鎧が音を立て、マントが翻る。
明るい笑顔を消してしまったサーシャをおいて、ボリスはソーニャと自室を出ると、短い階段をおり、廊下をぬけた。
「ソーニャ。父上が君をよこしたのか?」
部屋を出るときに壁際からとったものを腰のベルトにかけながら、ボリスが尋ねる。金属の触れ合う音を立てながら後ろを歩くソーニャが、ほんの一瞬、黙りこんだ。
「侍女や女官を遣わすことに陛下が反対あそばされました。
実のところ、私のミスにより、一部の者にはこれからご報告いたします密事を知られてしまっております。けれど、フョードルさま──侍医の頭さまにご協力いただきまして、彼らの記憶をしばらくのあいだ閉ざしているのです。ですから、これ以上は、誰にも知られてはいけないのですわ」
「それは、『記憶かげり』のことか?」
「そうです」
以前、解熱薬を作ろうとした侍医の頭が、天空城の庭にただ一本だけ生えているナパルという木の実から、奇妙な薬を生みだした。
それは塗り薬で、額に塗ると、丸一日のあいだ、10時間前までの記憶が曖昧になるのだ。その薬のことを、『記憶かげり』という。
「つまり、父上はたった一日のあいだで何か重大な難題を解決しようとしているのだな」
呟いたボリスの後ろで、ソーニャは苦々しく思いだす。自分がうっかりしたせいで招いた事態だった。
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