第3話サプライズ
真由美が誘拐されて二週間後のことだった。
「……何、これ?」
「あたしに言わないで。リチャードの指示なんだから」
真由美は自分が使わされているベッドを指差した。確か、昨日まではシンプルだったはずだ。
それが今、この部屋はラベンダーの香りに包まれている。
みずみずしい生花やドライフラワーにいたるまで、ラベンダー尽くしだ。ベッドの布団を捲ると、ラベンダーのポプリが入っていた。
「……レイチェル、リチャードを呼んで来て」
「何よ、不満なの?」
「ええ、ものすごく。こんなに花を使ったらもったいないわ!」
レイチェルは仕方がないと言わんばかりに肩を竦め、部屋を出た。
部屋に一人きりになったところで、真由美はポケットに手を入れた。
大丈夫。お守りはここにある。
リチャードの声がすると、真由美はサッとポケットから手を抜いた。
「マユミ! どうして気に入らないのかい? ラベンダーには、リラックス効果があるんだよ。イギリスでは常識さ!」
リチャードは眉が下がった表情で、真由美の部屋に入った。レイチェルも一緒にいる。
「リラックスするからでしょう? ラベンダーの効果は日本でも有名なんだから。その隙にあんたに襲われたらどうするのよ」
真由美はリチャードを睨みつけた。
けれどリチャードにはその威嚇すら効かない。
「僕が? とんでもない。僕は立派な紳士だよ。マユミの意志を無視するなんてありえない!」
「人を誘拐しておいて、よく言うわね」
「それは僕たちが出会うための出来事だったんだ。許しておくれ」
「……レイチェル、私の英語、ちゃんと通じている?」
光悦するリチャードをよそに、真由美はレイチェルに英和辞典を見せた。
「ええ、間違ってはいないわ」
「嘘だ」
「本当よ。ずいぶんと滑らかになったもの。アクセントも、アメリカの癖が抜けている」
「ふーん……」
どうやら、レイチェルは嘘を言っていないようだ。この様子なら大丈夫かな? 真由美はリチャードを見た。いまだに光悦に浸っている。
「ねえ、リチャード。お願いがあるんだけれど」
すると、リチャードはパッと立ち上がった。
そして真由美の左手を取りキスをした。
「珍しいね。できることであれば、君のお願いを叶えてあげるよ」
「それはいいから」
真由美は左手を引き抜き、着ている羊毛のセーターで力いっぱい擦った。
「家族に手紙を書きたいの」
すると、リチャードは眉をひそめた。同時にレイチェルを鋭く睨んだ。比較的背が見えない真由美にはその表情は見えない。何を吹き込んだのか、という無言の眼差しが。
レイチェルは突然震えた。そして何も言えなかった。
「今、思いついたんだけれど、私が無事だと手紙を出せば、向こうは私が誘拐されたなんて思いもつかないんじゃないの?」
聞けよ、と言わんばかりに、真由美はリチャードの左腕を強く叩いた。
「何なら、レイチェルにチェックさせてもいいよ。日本語が分かるならの話だけれどね」
リチャードは十秒ほど真由美のブラウンアイを見つめた。真由美は魔法のようだ、と。
誘拐され怯えるかと思えば、この生活を体験すると言った。
それだけではなく、せっかくならば、とレイチェルにイギリス永悟を自ら習う。
ジャックやピーターにも
大昔の町娘のような外見なのに、いつも毅然としている。
その真由美に、自分は恋という魔法をかけられてしまった。
真由美の願いを叶えずにはいられない。
「……分かった。でも、数日待ってくれるかい? マユミ専用のメッセンジャーを用意するから。僕たちは一般人のように封筒に消印をつけるわけにはいかないんだ」
「……なるほど、ついでに日本語が分かる人を探すのね。だったら、専用の紙を白無地にしてちょうだい。この国ではどうかは知らないけれど、日本では白い紙で便りを書くのが常識なの」
「そうしよう。レイチェル、早速手配してくれ」
リチャードは真由美から視線を外し、明るく軽快な声で言った。真由美が目の前にいるからだ。レイチェルはその意味を知っている。
下手なことをしたら命はない、と。
「分かったわ」
そう言うだけで精一杯なのだ。それでも、レイチェルはリチャードから離れられない。
彼のことが好きだからだ。
リチャードはそのことを見抜いて、彼女を利用している。
レイチェルもそのことに気付いている。けれど、恋敵の真由美に当たることは許されない。
恋も大事だけれど、最優先するべきものは、自分の命だからだ。
「……って、せっかくあたしがジャパニーズメッセンジャーを見付けたというのに、これは何? マユミ」
三日後、真由美は白い紙をレイチェルから受け取った。
真由美は早速手紙をレイチェルに見せた。
けれど、その紙には何も書かれていなかった。
「何って、手紙よ。寿田家では無言の紙が無事っていう合図なの。ま、他の日本人家庭の事情は知らないけれどね」
「だからって……」
「いいから、それで出して」
「分かったわ……メッセンジャーに渡してくる」
レイチェルは真っ白な便箋を封筒に入れて、グラウンドフロア《地上》に上がっていった。
一人きりになった真由美はもう一枚、白い紙を机の引き出しから取り出した。
「さーてと!」
真由美の手の中には、白い紙だけではなく、日本から持ってきたお守りがあった。
「ジャパニーズ! 仕事よ」
レイチェルがグラウンドフロアの窓を開けると、一人の男性が顔を出した。
「これをチェックしてちょうだい。もしかしたら日本語が隠されているかもしれないから。万が一あたしたちのことを誰かに言ったら……分かっているわね?」
「分かっているよ。女性なんだから、そんなに怖い顔をしないでおくれ……ふむ、何も書かれていないな」
「確認したら、さっさと行って」
「あいよ」
男性はつば付きの帽子を深く被っていたけれど、ランプの灯りでも分かるペールオレンジの頬は隠せていない。
果たして、真由美のメッセージは日本に届くのだろうか。
それはまだ、誰も知らないことだった。
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