第2話始まり

 『それじゃあ、行ってきます』

 高校二年生の寿田すだ真由美まゆみが日本を発ってどれほどの時間が経っただろうか。

 睡魔と覚醒の間をさまよい、飛行機の揺れに身を委ねていた。時差ボケというやつだ。

 真由美は語学習得のため、これから一年間イギリスに留学することになっている。

 真由美は将来の目標を明確に決めているわけではない。それでも、世界に羽ばたきたいという意志だけは強かった。

 両親は鼻高々に賛成した。けれど、十五歳年上の兄、寿田すだ敏明としあきを説得するために三ヶ月はかかった。

 敏明はすでに世界を舞台に活躍する社会人であり、日本がいかに治安に恵まれているかを妹に説いた。

 それでも真由美が自分の意志を譲らなかったため、敏明も渋々頷いたのだ。

 一つのお守りを渡し、条件を付けて。

 真由美はこれから起こる出来事など知らず、留学生活に期待を寄せていた。

 ロンドンの空港に着くと、ホストファミリーのブライト夫妻が待っているはずだった。

 けれど空港にはキャリーケースを引く人が大勢いても、真由美を歓迎するような男女はいない。どこにも、ローマ字でMAYUMIと書かれた看板などない。

 けれどブライト夫妻には事前にメールで真由美の特徴を知らせてある。背は百五十五センチで痩せ型、黒髪のロングストレートヘア、奥二重のブラウンアイ、まるで日本人形のようだと。

 もっとも、それは敏明が家族代表として記したのだけれど。

 真由美は自分自身が典型的な日本人だと思ってはいるが、人形のように愛らしいとは一度も思ったことがない。

 けれどここはもう異国の地。真由美の外見はイギリスでは珍しいはずだ。ブライト夫妻が見付けにくいとは考えられない。

 フライトの時間を間違えているのかな。

 そう思った矢先だった。

 「スダ・マユミだね?」

 空港の出口を通り過ぎると、サングラスをかけた金髪の女性が一人、真由美に近付いた。

 「そうだけれど、あなたは?」

 真由美は英語で聞き返した。

 「あたしの名前は関係ない。一緒に来てもらうわ」

 イッツ・ノン・オブ・ユア・ビジネス。ネイティブならではの単語を繋げての発音だったけれど、真由美はどうにか聞き取ることができた。

 関係ない、か。自分もブライト夫妻以外には用事もなければ関係ないのだけれど。

 真由美が心の中で呟いたとき、その女性の背後から突然二人の男性が現れた。

 女性の身長は兄の敏明より十センチは低そうな百七十センチと見る。

 一方、男性はどちらも敏明と変わらないくらいの慎重と見た。

 どう考えても女性の背後に隠れるのは不可能だった。

 「あるお方が君にどうしても会いたがっている。乱暴なことはしたくない。さあ、行こう」

 男性は「あるお方」をHEと呼んだ。

 真由美はそれを聞き逃さなかった。つまり真由美はある男性の指名で、両脇に立つ男性に腕を組まれ、背中に手を当てられている。

 「荷物はこれだけ? あたしが持つわ」

 金髪の女性は真由美のキャリーケースを素早く持った。

 「ねえ、これって……んっ!」

 イズ・ディス……。真由美が声を出すと同時にハンカチを口に当てられた。

 そこで、真由美の意識は途切れた。

 誘拐って、英語で何と言うのかな?

 車というゆりかごに揺られ、真由美は夢の中で自分自身に尋ねていた。

 夢の中には誰もいない。誰も助けてはくれない。


 サァー……。雨の音がする。

 真由美は目を開けてみた。けれどそこには窓がなかった。

 「は? どういうことだよ、リチャード」

 「こんなに可愛い子を襲うな、だなんて言って」

 襲う? 誰を?

 「あんたたち、リチャードが駄目だって言っているのだから、我慢したらどうなのよ」

 りちゃーど? 誰のこと?

 灯りの乏しい空間を見渡した。

 三人の男性と一人の女性が英語で何かを言い合っている。金髪の女性と茶髪の男性、そして黒髪のもう一人の男性は見覚えがある。ロンドンの空港で真由美をさらった人たちだ。

 ではここはどこなのだろうか? それにもう一人の男性は誰なのか?

 金色がかった茶髪に、二人を見下ろすほどの長身。おそらく兄の敏明よりも背が高い。目の色はよく見えないけれど、眼光の鋭さが全身に伝わる。思わず身震いした。

 この後、自分は一体どうなるのだろうか。考えただけで鳥肌が立った。

 彼から目が離せず硬直していると、真由美の目覚めに気が付いたようだ。

 眼光の鋭さは一気に失われ、微笑んで近付いた。

 「やあ、調子はどうだい?」

 「……」

 真由美は沈黙のまま、彼を見つめる。

 決して英語を理解できていないのではない。穏やかなグリーンアイが同じ人物の目だと思えなかったからだ。

 「ねえ、もう少しゆっくり話してあげたらどうかしら?」

 彼の背後から、金髪の女性が言った。彼女は澄みきったブルーアイだった。

 「ああ、そうか、レイチェル。彼女はまだこの国に来たばかりだからね。マユミ、僕の名前はリチャード・ブルックマン。リチャードと呼んでくれ」

 彼女はレイチェルという名前なのか。そしてグリーンアイの彼の名前はリチャード。

 リチャードはゆっくりと、最初に訊いたことをふたたび口にした。

 ハウ・アー・ユー?

 それでも真由美は答えなかった。

 教科書の決まり文句のように、アイム・ファイン・センキュー、などと言える雰囲気でも気分でもなかったからだ。

 真由美は返事の代わりに自力で起き上がろうとしたができない。両手を後ろに縛られているからだ。

 するとリチャードが真由美の背を押し上げベッドから起き上がらせた。大きな手はガラス製品を扱うように慎重だった。

 真由美は拘束されたまま胸元、脚の付け根をじっくりと見た。

 服の乱れがないことから、乱暴はされていないようだ。体に痛みも感じない。

 「ああ、大丈夫のようだね。良かった。それにしても日本人は静かに振る舞うのだな。なんと美しい!」

 リチャードは拍手した。片方の膝を床に着けて、真由美の言葉を待った。

 それまでは穏やかな紳士を演じた目であった。

 「ねえ、これ、どういうことか説明してくれない? 私、留学に来たのに!」

 真由美は拘束された手の代わりに足でリチャードの両手を蹴って拍手を止めた。

 レイチェルとブラウンヘアの男性は青ざめた。とくにレイチェルはリチャードから離れ、背中を壁に付けた。肌の色が白いためか、日本人の真由美よりも顔色の変化がよく分かる。

 男性二人はレイチェルほどではないけれど、眉が引きつっていて、恐怖を抱いているのが真由美にも分かった。

 けれど誰に、までは想像できなかった。

 目の前のリチャードは穏やかなグリーンアイで真由美を見上げていたからだ。

 夢から覚めた直後の恐怖など、真由美はとうに忘れている。

 「……いい」

 「は?」

 囁くような低い声に、背後の三人は耳を疑った。

 「いいね、その気丈さ! 日本の町娘は健気で儚いと聞いた。そして君は人形のように愛らしい! それでいて気後れしていない。素晴らしいギャップだね!」

 「町娘……? もしかして江戸時代の番組でも見ているの? ていうか、何なの? この人」

 今度は真由美が小首を傾げた。

 エド・ピリオド? と尋ねると、リチャードは両腕を広げて言った。

 イェス! イッツ・ミトコウモン! と。

 「君は僕の指示で誘拐された。目的は金さ。でも気が変わった。このまま僕とここで暮らそう!」

 「はあ? 何を言っているの? 説明になっていないわ。それに私は語学留学に来ているのよ。あなたとは一緒に暮らせないわ!」

 すると、リチャードは眉尻が下がり、グリーンアイの光彩が鈍くなった。

 「そんなことを言わないでおくれ。英語なら、僕たちが教えるから」

 真由美はリチャードと彼に紹介された三人の顔ぶれを見た。

 レイチェルとピーターは血の色が映えるほど肌が白い。ジャックは二世なのだろうか。褐色の肌が表情を隠している。

 リチャードはレイチェルとピーターよりも肌が透き通って見える。恐らく彼は滅多に外に出ないのだろう。

 リチャードの視線に毒気は感じられないけれど、他の三人はまったくと言って良いほど隙がない。

 両手を拘束されたまま逃亡するのは困難だろう。

 真由美は腹を括った。

 「決めたわ!」

 真由美はにやりと笑った。

 「私、このまま誘拐されてあげる。こんな機会を逃すなんて、もったいないわ!」

 「……は?」

 リチャードは嬉しそうに口角が上がった。

 レイチェル、ジャック、ピーターふたたび耳を疑った。ジャックとピーターは互いに頬をつねり現実を確かめている。

 レイチェルは自分の両頬を叩き、赤く染める。

 「夢ではないようね」

 「そうだな。それにしても、このジャパニーズ、誘拐の意味を分かっているのか?」

 ジャックが問うと、レイチェルとピーターが肩をすくめた。

 「リチャード、この女は何も分かっていないみたいよ? ……リチャード?」

 リチャードは肩をぶるぶると震わせていた。

 ジャックは気になって、リチャードの顔を覗こうとした。

 しかし、リチャードが突然両腕を広げたので、ジャックの顔に指先が直撃してしまった。

 「やはり素晴らしい! 何度も言うが可憐で繊細な姿でありながら凛としている。は今までこれほど魅力的な女性を見てきただろうか!」

 「おい、リチャード……?」

 「どうしたの? 頭でも打ったの?」

 レイチェルとピーターが恐る恐る声を絞る。

 ジャックは痛みに悶えて何も言えない。

 けれどリチャードは二人の声に耳を傾けず、真由美の手錠を外した。

 「皆、聞いてくれ! これからマユミは僕たちの仲間だ。そして、僕の未来の花嫁だ。よって、レイチェル、君をマユミの世話係に任命する。何しろ彼女はこの国に来たばかりだからね。女性として不自由ないようにしてくれ。まずはこの国では欠かせない羊毛のセーターを用意して。もうすぐ秋だからね、日中の寒暖の差が激しくなる。ジャック、ピーター君たちはマユミには常に紳士でいるように。さっきも言ったけれど、手を出すなんてことはあってはならない」

 リチャードは真由美に背を向け、声高らかに言った。けれどグリーンアイは笑っていなかった。光彩は牙のように鋭く、部下の三人に噛みつこうとしている。

 不服ながら、リチャードの意見に従う他ない。

 「イェス、サー」

 その声もリチャードには届かない。従って当然と思っているようだ。

 反対に、真由美にはグリーンアイを穏やかに見せる。

 「マユミ、これからは僕が君の願いを叶えてあげる。でもね、僕の事情で、どうしてもベースメントフロア《地下》にいてもらわないといけない。理由は察してくれるかい?」

 リチャードは真由美を抱き上げ、近くのソファに座らせた。

 その間、真由美は日本語で「触るな」と何度も言った。

 体を降ろされると、真由美はリチャードの白い頬を叩いた。

 「……分かったわ。でも花嫁って何? 私、あんたと結婚するとまでは言っていないわよ」

 「ああ、強情な君は最高だよ、マユミ」

 リチャードの頬が手形に赤く変色した。

 「えーと、レイチェル……だっけ? どうせ学校に行けないのなら、イギリス英語をちゃんと教えてよね。あと文化も。何もせずに過ごすのはもったいないわ」

 「……分かったわ」

 レイチェルは渋々キャリーケースを渡した。

 「あら、ありがと。言っておくけれど、大金なんてキャリーケースに入っていなかったはずよ?」

 「ええ、確認したわ」

 「うわ、さすが誘拐犯!」

 「マユミ……僕の存在を忘れていない?」

 リチャードが真由美の手に触れようとしたら、容赦なくはたかれた。

 こうして、真由美の誘拐生活が始まった。

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