ヘンリエッタの細胞

深夜太陽男【シンヤラーメン】

第1話

     ○


 妻を亡くしたのは十年前だった。子宮癌を告知されたときには病状は悪化しすぎていた。治療も虚しく彼女は息を引き取った。身寄りも少なく葬儀も小規模で済ませられた。あれから私は仕事と墓参りだけをマメに取り組み過ごしていた。再婚どころか生きがいと呼べるものすら見つけられないままで、私は妻と一緒にもう死んでいるのかもしれなかった。


     ○


 夏の終わりと言えど暑さはまだまだ続いていた。私はいつもの習慣で彼女の眠る墓へと向かっていた。身寄りの少ない彼女ではあったが、墓元にはいつも誰かから花が添えられていた。私以上に律儀な人間がいるのかもしれない。その当人にはなかなか出くわすことはなかった。

 私の目指す方向に初老の男性とまだ若い女性がいた。彼女の親類ではないが見覚えがあった。男性のほうはかつての彼女の担当医だ。そして、女性の方は、十年前の彼女その人だ。

「お久しぶりです。お待ちしておりました。ご紹介しましょう。信じられないと思いますが、今日はあなたの奥さんを連れてきました」


     ○


 近くの喫茶店で話をすることになった。店内は客も少なくボサノバが流れているのが聞き取れた。医者は余談もなく本題を語り始めた。

「あなたにとって不快な事項も多々あると思いますがどうか最後まで聞いてくださることを願います。あなたの奥さんを治療する際、腫瘍部分から細胞を一部摘出させてもらいました。一時的な観察のためで細胞そのものは勝手にすぐに死にます。しかし彼女の細胞はいつまでも死ぬことなく、環境を整え培養してやればいくらでも増えるのでした。彼女が亡くなった後も」

「初耳だ」

「報告が遅れたことを心苦しく思います。当時の私は研究に没頭しました。維持できる細胞があれば今までできなかった臨床試験も可能になったんです。おかげでいくつもの病気や怪我に対する特効薬や治療の開発に成功しました。彼女は多くの人を救いました」

「臨床試験って、実験台にしたのか」

「あくまで彼女の細胞を、です。あなたの髪の毛が一本抜けたとしてそのパーツは果たして『あなた』と呼べるでしょうか?」

「だからと言って勝手にそんなことされて」

「そうですね。私も目の前のことに夢中で個人の尊厳を後回しにしていた。科学の発展は民衆の同意が必要不可欠です。私は彼女の表彰と、研究成果で得られた莫大な資金をあなたに贈与することを計画しています。そして、ささやかながら『彼女』の形成品も。技術の進歩はもう死者蘇生の域までたどり着くんです」

 私は耐えられなかった。生命の冒涜、人権無視、倫理観の崩壊。人命救助の大義名分さえあればこんな非人道的なことさえ許されるのか。

「あなたは、狂っている」

「言いたいことはよくわかります。私だってあなたと同じ社会教育をされ道徳も学びました。しかしこの古い考えを引きずったままでは今もたくさんの人が死んでいたのかもしれないんです。受け入れてくれればとても楽になれますよ」

「無理だ。そんなこと考えてしまえば、今まで生きていた彼女を否定することになるだろ」

「そもそも、生きているとは何ですか? 命とは? 生き物は細胞の集合によって成り立っています。タンパク質の塊はごく単純な化学反応を繰り返しているだけです。分子レベルで、原子レベルで、でもそれなら無機物と変わらない。意識や自我の有無はどうでしょう? 植物は毎晩明日の天気について頭を悩ますでしょうか。生まれたての赤ん坊より機械の人工知能のほうが人間らしく思えたりしませんか? 身体を維持・成長させることだったらなぜ老化や死のプログラムがあるのでしょう。分裂もしくは生殖により環境に適応した子孫を残すことが目的なら『個』が消滅したところで『種』は生き延びるので大した問題ではないはずです」

「やめてくれ」

「ええ、私も答えの出ない哲学は苦手です。問題はあなたの心情の整理についてです。この『彼女』は見た目こそオリジナルと全く変わりませんが中身はまだ真っ白同然です。『彼女』の人格形成に関わる情報、生前の個人アカウントでもあなたの証言でも行動履歴でも構いません。提供してくださればあなたの望むまま再現できます」

「そういうことじゃないだろ」

「スワンプマンという話をご存知ですか? 以前と変わらない生活が約束されます。考え方を切り替えましょう。行方不明だった妻が奇跡的に戻ってきたと。少し様子は違うが前と変わらず過ごせると。簡単な処置であなたの記憶の方も改ざんができます」

「なんで俺にこんなことを」

「私なりのけじめのつけ方です。埋め合わせることができるのなら埋め合わせたい」

「ひとつ」

「どうぞ」

 私は『彼女』へと視線を向けた。

「墓の前にいたとき、何を考えた?」

「……ただ、オリジナルの存在を感じました」

 その目の奥の感情を読み取ることはできなかった。しかしはっきりした。

「『彼女』でもないし、『彼女』の代用品でもないんだ。受け入れはできない。勝手に生きてくれ」

「そうですか、残念です」

 医者は立ち上がる。女性の手を引いて。

「待て、その、この『彼女』はこれからどうなる」

「役目が変わりました。他の実験材料と同じ扱いになるだけです」

 私はコップの水を医者にふっかけていた。

「失せろ。二度と目の前に現れないでくれ」

「……失礼します」

 男は滴りを気にしないまま出口へ向かった。慌てて女性はついて行く。男は扉に手をかけて止まり、目を伏せながらも顔をこちらに向けた。

「お墓参りには、また来てもよろしいでしょうか?」

「今日が、初めてじゃなかったのか」

「成功失敗関わらず、臨床試験の度に」

「……勝手にしてくれ。人殺し」

 男たちがいつ消えたかはわからなかった。私は店の閉店時間まで座り呆けていた。


     ○


 今も『彼女』の細胞は世界中で誰かを救っている。私にそれを止める権利はなかった。『彼女』はどう思っているのだろう。想像もできない、したくなかった。

 私はあれから仕事に行かなくなり、毎日、度数の強い酒や幻覚作用のある薬に溺れるようになった。家でも街中でも『彼女』を幻視するようになった。生きるとか死ぬとか、大した問題ではなかったんだ。夢中で『彼女』を追いかけた。

 夜の海には奇妙な安心感があった。ひたすら闇に包まれた世界で、黒い怪物のようにうねる波が私の足元を救う。誘っているみたいだ。海中では優しく抱擁してくれるのだろう。

 遠く、沖に立つ『彼女』は私に手を振ってくれた。私は進み、ズブズブと海水に体を浸していく。呼吸ができない苦しさはなかった。そんな必要がないからだ。海は孤独だと誰かが言ったがそれは嘘だ。こんなにも生命の原子が溢れている。そこに『私』である必然も『彼女』である必然も要らなかった。思考は消え、体は分解されていく。永遠と瞬間が、全と一が混じりあっていく。そこには最初から生死などなかったのだ。

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ヘンリエッタの細胞 深夜太陽男【シンヤラーメン】 @anroku

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