シアトルのフレンチディップ
フレンチディップというサンドウィッチをご存知だろうか?
日本でフレンチディップを食べられる店はほとんどないので、知らない人が多いかも知れない。
フレンチディップはロス・アンジェルス発祥のサンドウィッチだ。フレンチとあるが、フランスとは全く関係がない。というか、むしろフランス人はこれを避ける気さえする。
フレンチディップの組み立て自体は簡単だ。
とりあえず、アメリカ風の柔らかいフレンチロール(あれだ、サブウェイのパン。限りなく頼りない、なんかモロモロしたコッペパンみたいなパンだ)、これを横から切ったところに大量のローストビーフを積み上げ、さらに炒めた玉ねぎとマッシュルーム、とろけるチーズを乗せてトーストする。
あとはこれをパッタンして、食べる。
ただ、食べ方に特徴があって、Au Jusと呼ばれるローストビーフを作った残りの肉汁に浸しながら食べる。Au Jusはローストビーフでもソースに使うのでそんなに特殊なものではないし、緊急時にはビーフコンソメでも問題はない。
アメリカのスーパーに行けばインスタントのAu Jusミックス(粉末)が売られているくらいだ。
フレンチディップを初めて見たのは例によってクリスの紹介だった。
二人でハンバーガーを食べに行った時、クリスは気取ってフレンチディップを頼んだのだ。
それが途轍もなく美味そうに見えたのは言うまでもない。
溢れる肉汁、山のようなローストビーフ。これをしょっぱいAu Jusに浸しながら食べる。
アメリカ風の下品な食べ物だが、美味そうにフレンチディップを頬張るクリスにはほとんど怒りを感じたほどだ。
そんなにうまいもの、なんで教えてくれないのさ。
以来、僕はフレンチディップマニアになった。
最初のうちはお高いステーキハウスのランチなどで食べていたのだが、やがてクィズノス(http://global.quiznos.com/)というサブウェイの競争相手がフレンチディップを出していることを知り、そこにばっかり行くようになった。
(ちなみにクィズノスは一度日本に来たことがある。その時にフレンチディップを出していたのかどうかは判らないが、撤退してしまったのは誠に残念だ。再訪を強く希望する)。
クィズノスのフレンチディップはシンプルだ。
サブウェイと同じように、工場で生産されたローストビーフを指定されたパンに並べ、玉ねぎとマッシュルームを炒めたものを乗せた上にチーズを散らしてトーストする。
Au Jusは紙のカップで供される。
これらをポンポンと紙袋に入れ、飲み物を買うか買わないか聞かれたらそれでおしまい。値段も7ドルしないのでリーズナブルだ。
以前勤めていたシアトルの会社の近所にはクィズノスがあったので、僕のお昼は毎日フレンチディップだった。
会社を抜け出し、フレンチディップをクィズノスで買い、泊まっていたアパートでランチを食べる。
至福の瞬間だ。
アパートの向かいにはアイリッシュパブがあり、そこもフレンチディップを出していたのだが、こちらもまた美味かった。
さすがに値段が違う(こちらは12ドルくらいした)ので、ローストビーフの質が高い。
そしてローストビーフの量も多い。
この場合は半分を晩に食べて、残りは朝に食べていた。さすがに晩にそれだけだと足りないから、一緒にビールも飲んだけど。
晩にフレンチディップを頼んだ場合、ハーフパイントのビールを空けたあたりでちょうどサンドウィッチが出来上がる。いいタイミングだ。
昼から回しても夜から回してもどっちでも行けるので大変重宝していた。
さて、シアトルに出張した際に、同じく日本で採用されたセールスのHさんと同じタイミングで事務所に行くことがあった。
Hさんはアメリカ在住なのでフレンチディップなんてお馴染みだと思っていたのだが、話を聞いたら食べたことがないという。
それならフレンチディップを食べましょうという流れになり、お昼は二人で急な坂道を登ってシアトルのダウンタウンに出かけた。
途中のクィズノスに行っても良かったのだけど、さすがに庶民的すぎる。
セールスの人と一緒だと彼の財布が使えるので、ぜひおいしいお昼を食べたい。
そういう訳で、僕は彼を「メトロポリタングリル」というシアトルでも一、二を争うほどに高級なステーキハウスに連れて行った。
メトロポリタングリルの入り口は荘厳だ。
入り口のドアは両開きで分厚いし、中にはウェイティングバーがある。入り口にはなぜか「山形牛」と漢字で書かれた札が立てかけられ、ガラスケースには綺麗にサシの入った和牛が並んでいる。
内装は年季が染み込んで飴色だ。しかし、清掃が行き届いているおかげで不潔な感じはまったくない。
「凄い店だねえ」
内装に怯んだ様子のHさんに、
「お昼ならそんなにすごい値段ではないですよ」
と、僕は気休めを言う。
シアトルも物価が高くなったが、ここでランチを食べたら二十ドルを超える。
まあ、高い。
でも、セールスの財布に比べたら安いものだ。
通された席は馬蹄型の、トラディショナルなボックス席だった。
早速白いウェイターコートを着た老人が近づいて来て自己紹介をする。
ウェイターが自己紹介する店は要注意だ。
気をつけないととんでもない値段のランチを食べる羽目になる。
とりあえず飲み物はシアトルで流行っているアーノルドパーマー(アイスティーとレモネードを半々に割ったもの)を二人で頼み、メニューを眺める。
僕はもう頼むものが決まっているので眺めているのはもっぱらHさんだ。
さすが、本格ステーキハウス。ハンバーガーも焼き方が頼めるようだ。ブルー(ほとんど焼いていない、温めただけのタルタルステーキ)からウェルダンまで、トッピングも自由自在。
ここまで自由だと逆に選択に迷ってしまう。
「いいや、僕も同じものを頼む」
しばらくメニューブックを眺めた後、Hさんはついにサジを投げた。
選択肢が多すぎたようだ。
メニューブックを閉じたと同時にすり寄ってきたウェイターに僕は、
「フレンチディップを」
と頼んだ。
二つ。
「Hさん、付け合わせは何にします?」
「ガモーさんは?」
「僕はフレンチフライ。ディープトーストで」
「じゃあ僕も、それ」
「かしこまりました」
と、ウェイターが恭しく頭を下げる。
「ローストビーフの焼き加減は如何しましょうか?」
ここで予想外の質問。
まさか、焼き方まで選べるとは。
「僕はミディアム・レアで。Hさんは?」
と、僕は尋ねた。
「お、同じで」
「じゃあ、ミディアム・レアを二つ。チーズはモッツレラで」
「畏まりました」
老人はメニューブックを前に抱えたまま、深々と礼をした。
+ + +
さて、十分後に届いたフレンチディップだが、これがまるで小山のように大きかった。
赤みのローストビーフがパンの横から盛大にはみ出ている。しかも分厚い。
「お楽しみください」
ウェイターが去った後でHさんがため息を吐く。
「これは、すごいな」
確かにすごい。
ほとんど肉だ。パンよりも肉の方が多い。
「そうですね。自慢なのかな?」
「これ、どうやって食べるの?」
と、Hさんは僕に尋ねた。
この人、本当にアメリカ在住かいな。フレンチディップを見たことすらないってのはカリフォルニア住人としては若干問題だ。
まあ、ともあれ、
「このパンをつかんで」――と、半分に切られたサンドウィッチを手に取る――「そこのソースに浸しながら食べるんです」
と説明した。
「なるほど」
あとはいつもの流れだ。
僕は早速サンドウィッチをジャブっとAu Jusに浸けるとバクっと食いついた。
すかさず口の中に広がる牛肉の芳香、飴色になるまで炒めた玉ねぎとマッシュルームと溶けたチーズの甘み。
パンに染み込んだコンソメのようなAu Jusが口の中の渇きを満たす。
このコンビネーションは最高だ。
よもやま話をしながらランチをアーノルド・パーマーで流し込む。
だが……
メトロポリタングリルのフレンチディップはローストビーフが少々多すぎた。
あっという間にパン成分がなくなり、手の中には肉と野菜が残る。
「これは、なんというかメッシー(=ぐちゃぐちゃ)な食べ物だねえ。美味しいけど」
パンのなくなってしまった元サンドウィッチを食べながらHさんが感想を述べる。
申し訳ない。
僕もこんなにすごいとは思わなかった。
「ですね。すごいな、これは」
あっという間にHさんのナプキンはAu Jusに染まって茶色くなった。
僕のナプキンはそれほどではなかったけれども、それでも手はベタベタだ。
「でも、美味しいな、これは」
少しローストビーフを残しながらも、慰めるようにHさんは言ってくれた。
僕は完食。
だが、満足感よりも手のベタベタが気になる。
パンが少なすぎるのだ。
思えば、フレンチディップはロス・アンジェルスの路面で営業しているサンドウィッチ屋さんが発祥だ。
お手軽メニューが高級感を出すとロクなことがないらしい。
こんなことならクィズノスに行けばよかった。
まあ、超高級フレンチディップを食べられたからよしとするか。
多分、次はきっともっと安い店に行くけれど。
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