ホビロン、またはバロット
皆さんはホビロン、あるいはバロットという食べ物をご存知だろうか?
ホビロンというのはベトナムでの名前、フィリピンではバロットと呼ばれる。
これは、アヒルの有精卵をある程度まで孵化させて、だがアヒルの雛として孵る前に茹で殺して食べる恐ろしい料理だ。
そのグロテスクなイメージから、特に西欧圏では極悪珍味として名高い。日本人は何でも食べる癖にホビロンは可哀想すぎて人気がない、というか食べたことがある人はあまりいないのではなかろうか?
でも、これがアメリカでは食べられるのだ。
(ちなみに日本でも御徒町とかの市場では売っているらしい。まだ探しに行ったことはないのだが、いずれ買おうと思う)。
+ + +
実はホビロンには長いこと興味を持っていた。
特にゲテモノが好きというわけではないが、ホビロンは東南アジアに広く受け入れられている。フィリピン、タイ、台湾、ベトナム、どの国でもホビロンを食べる。
それならばきっと美味しいに違いないと僕は踏んでいた。
だが、情報があまりに少ない。
食べ方もわからないし、そもそも日本で売っているかどうかすら定かではない。
そのため、ホビロンは長いこと僕の中で課題となっていた。
最初にホビロンを実際に食べたという話を聞いたのは、社会学のフィールドスタディでフィリピンの最奥地に長いことホームステイしていた後輩の女の子からだった。
彼女は河の上に建てられた掘っ建て小屋みたいな家に一年以上ホームステイしていたのだ。
トイレは河、シャワーは剥き出し、風呂はない。
あまりに交通の便が悪いので普通の観光客は来ないような場所らしいのだが、なんでかドイツ人の観光旅行客はいたらしい。
余談だが、ドイツ人の観光旅行に対する情熱は常軌を逸している。
どんな最奥地でも、ドイツ人は必ずいると言われるくらいだ。
「Fさん、フィリピンでバロット食べた?」
そんなとんでもない場所でのフィールドスタディから帰ってきた彼女と会った時に僕は訊ねてみた。
「食べたよ」
さすが学者。現地調査に行くだけあって、現地に完全に溶け込んでいたようだ。
「あれはね、夜の食べ物なの」
「夜の食べ物?」
うなぎパイみたいだな。
「なんでか夜に売りに来るの、バローット、バローットって。昔の日本のお豆腐屋さんみたいな感じ」
「へえ」
「わたしがホームステイしていたうちのお父さんが一度買ってくれたんだけど、美味しかったよ」
思い出したのか、彼女はにっこりと笑った。
「へえ。どうやって食べるの?」
何としても突き止めなければならない最大の謎を僕は彼女にぶつけてみた。
「ゆで卵とほとんど一緒かな。固茹で卵作るみたいに十五分くらい茹でて、卵の尖った方に少し穴を開けて、そこからティースプーンを差し込んでよく混ぜてから食べるの」
「味はどうだった?」
「なんかね、濃厚なチキンスープみたいな感じだった」
なるほど、濃厚なチキンスープか。そりゃそうだろうな。まだ孵化していないとしたら、まだ黄身とか残っているのかもしれない。
「白身は食べるの?」
「白身は食べないかな。スープだけ飲むの」
「でもなんで夜の食べ物なんだろう」
「あれ、精力剤なんだって。だから夜食べるみたい。あと、明るいところで食べると怖いからかな。薄暗いところで食べるものみたいだよ」
なるほど。よく茹でて、混ぜて食べると。
殻を剥いて食べるものではないようだ。
それなら、ハードルは低い。
いつか食べてやろうと僕は強く決意した。
次にホビロンと再会したのは、アメリカでの駐在中だった。
それまでホビロンの存在そのものを忘れていたのだが、アメリカのベトナム系モールのスーパーマーケットでホビロンが売られていたのだ。
アヒルの卵は、鶏の卵よりも少し大きい。
ついでに言うと、色も少し緑っぽい。薄いウグイス色といった感じだ。
そのスーパーではホビロンの他に普通の無精卵も売っていたので、ホビロンの先端には赤いマジックで小さな赤い丸が書かれていた。
これが有精卵の意味なのだろう。
ちなみにホビロンには等級がある。
中のヒヨコが育っているものの方が等級は高い。
そして、そういう等級の高いホビロンの方がハードルも高い。
僕は少し悩んだ末に普通のホビロンを二つ、買った。
確か、一個一ドルしなかったと思う。安い買い物だ。
十二個セットのパックもあったが、さすがにそれはヤメにした。食べ残したアヒルの子供を育てる自信は僕にはない。
夕方まで待ってから、僕はキッチンで鍋に水を満たした。
その中に買ってきたホビロンを二つ、ぽちゃんと入れる。
さあ、点火だ。
Fさんは十五分くらいと言っていたが、念には念を入れて二十分茹でることにした。
ごめんよ、アヒル。君たちのことは忘れない。会ったことはないけれど。
キッチンタイマーを使って、きっちりと二十分はかる。
茹で終わったホビロンは大ぶりな茹で卵といった雰囲気だった。
熱湯の中からスプーンで卵を救出し、お皿に乗せる。
フィリピンでは一緒に食べる謎の薬草があるそうなのだが、それがどんな葉っぱなのか皆目わからなかったので葉っぱは端折った。
そして、暗いところで食べる、と。
僕は少し考えてから、バックヤードのガーデンチェアに移動した。
いつもは電灯をつけているのだが、今日は消して暗いままにする。
さあ、開封だ。
僕は半熟卵の蓋を開ける要領で横からティースプーンで叩いて殻を破り、ちょうどティースプーンが入る程度の穴を開けた。
光は、居間から漏れる電灯しかない。周囲はもう夕暮れだ。
暗いので、卵の中はよくわからない。でもなんとなく血管のようなものが走っているのが見える。
やっぱり有精卵だ。中ではアヒルがすくすくと育っていたのだろう。
おっかないので、一気にスプーンを入れて中をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
かき混ぜると透明なスープが上澄みに上がってくる。
一番下には白身が固まっていたが、これは食べないということだったので、白身の上の方を重点的に混ぜた。
最初に食べるときにはさすがに勇気がいった。
どんな味なのか? どんな食感なのか?
えいやっと最初のひとさじを口に運ぶ。
だがすぐに、顔が綻ぶのが自分でもわかった。
これは、うまい。
濃厚なチキンスープとはよく言ったものだ。ものすごく栄養がありそうな味がする。
僕はすぐにバクバクとスープをすくい始めた。
たまにカリカリしたものが混じっている。きっとこれは、骨やら、くちばしやらなんだろう。
考えると怖いので、それには目をつぶることにする。
だが、その食感がまた癖になる。
きっと、濃厚なスープだけでは飽きてしまう。
食感が変わるから飽きずに食べられるのだ。
フィリピンでは一回に何個も食べる人もいるとFさんから聞いていたが、それもわかる気がした。
いくら大きいとはいえ、アヒルの卵の容量なんてたかが知れている。
せいぜい五十CCくらいだろう。
僕はあっという間に一個目を片付けると、二個目に取り掛かった。
二個目を食べて思ったのは、「少し塩気が足りないかな?」ということだった。
とんでもなく濃厚なのだが、もう少し味があってもいい気がする。
「ふう」
あっという間に二個のホビロンを片付けると、僕は孵ることなく逝ってしまったアヒルの霊に一応の尊敬を示すために両手を合わせて儀式を終了した。
翌日。
僕は会社でベトナム系の女性のキムさんのデスクに赴いた。
「あら、ガモーさん、何か御用?」
キムさんは事務職のベテランだ。物腰が上品で、対応も柔らかい。
「あのね、ホビロン、食べてみたんだ」
僕は彼女に言った。
「まあ!」
彼女は驚いたように片手を口元に添える。
「ホビロン食べた駐在員はあなたが初めてかもよ。美味しいわよねえ。わたしもたまに食べるわ。あれは風邪ひいた時には特効薬よ」
「うん、美味しかった。でも、何か味が足りない気がするんだ。何でだろう?」
「ちゃんとお塩とコショウ入れた?」
「塩?」
「そうよ。あれだけじゃあ味が薄いもの。穴から少し、コショウと塩をいれて、それから混ぜるの。その方が美味しいわ」
なるほどね。
塩か。確かにもう少し塩があってもいい気がする。
「ありがとう、キムさん。今日試してみる」
「コショウも大切よ。コショウがちょっと入っていると美味しいわ」
キムさんはにっこりと笑った。
会社の帰り道、僕は少し遠回りして例のベトナムモールに寄り道した。
一直線に卵売り場に向かい、再びホビロンを二つ手に取る。
レジは混んでいた。レジは二レーンしか開いていなかったのだが、そのうちの一レーンがトラブルになっている。
そして運悪く、僕の並んだレジはそのトラブルの真っ最中だった。
僕の二、三人前で、太ましいアメリカの女性が大声でまくしたてている。
「あなたたちの売っている卵は何なの? 十二個買ったけど、全部にアヒルが入っていたわ。わたし、失神するかと思ったわよ」
すごく怒っている。怒りで首まで赤くなっている。
どうやら、普通の鶏卵と思ってホビロンを買ってしまったらしい。
レジの女性はそのアメリカ人の女性の勢いにタジタジになっていた。
「いえ、お客様、お客様がお求めになった卵はそういう商品なんです」
「信じられない! あなたたちはそんな古い卵を売っているの?」
「いえ、新しい、古いではなく、そういうものなのです」
「とにかく、返金してもらうわ! これ、レシート」
「……はい」
レジの女性はキャッシャーを開けると、卵の値段の小銭を怒れるアメリカ人女性に手渡した。
「今度はちゃんと孵っていない卵を頂戴!」
その太ましい女性は小銭を受け取るとズンズンと去って行った。
まあ、知らずに買ったらこれが普通の反応かもな。
知らないことはほとんど罪だ。
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