イスラエルの歯科医
今回のお話は残念ながら食べ物はあんまり関係ない。
でも、歯は大切にしましょうねというお話なので一応ここに記しておこうと思う。
+ + +
その日、テルアビブの地中海に面したビーチのテラス・レストランで殺人的なサイズのステーキを食べた夜。
ホテルの部屋で寝ていたら、奥歯に異常を覚えた。
恐る恐る舌で奥歯を探ってみる。
と、左側の奥歯の根元がえらく腫れ上がっていることに気づいた。
そういえば、なんか痛い気もする。
この歯は、神経を抜いて被せ物をしてあったのだが、その被せ物が取れてしまって治療中のまま二年ほどうっちゃらかしていた歯だ。
被せ物が取れた後に神経を抜いたところが炎症を起こしているとかでまたゴリゴリやられていたのだが、痛くなくなったところで歯医者に行かなくなって、それ以来放置していたのだ。
どうやらそれが今頃になってぶり返しつつあるらしい。
僕はとりあえず愛用のアメリカ製の強い痛み止めを飲むと、気を紛らわせるためにさらにビールを一本飲んで、寝た。
その真夜。
ズキズキと脈動する歯の痛みで目が覚めた。
うーん。痛い。
しかし、こんな中東のど真ん中で歯が痛くなるとはどれだけ運が悪いんだろう。
その夜は寝たり起きたりしながら朝まで耐えた。
翌朝九時に、とりあえず会社には(歯痛で)遅れて行くとメールを入れた上でホテルのコンシェルジュに相談する。
「歯が痛いんだけど」
「歯が痛い? それは大変」
「歯医者さんって、紹介してもらえる?」
「もちろん。今から予約してあげる」
コンシェルジュの親切な女性はしばらく探した上で最寄りの歯医者に連絡を入れ、タクシーまで呼んでくれた。
イスラエルは戦争をしているので、実は医療技術、それも外科関係が意外と発達している。だが、そんなことはその時は知る由もなかった。
イスラエルで歯医者? 恐怖しかない。
タクシーが連れて行ってくれた歯医者は、中東風の古いアパートの一角にあった。
砂嵐で風化して、とても古く見える。というか、実際古くて薄暗い。
歯医者は三階にあるようだった。
エレベーターがないので、痛む歯を片手で押さえながら階段を上る。
階段はさらに薄暗い。
こんなところで治療して大丈夫か?
だが、他に選択肢はなかった。この痛みは本物だ。歯茎は腫れ上がっているし、口の中には溢れてきた血の味もする。明らかに開けっ放しにしておいた穴から血が、それもおそらくは化膿した血が流れ出ている。
迎え入れてくれた歯医者は陰鬱な感じの中年の男性だった。
優しそうだが、信用ならない。
とりあえず症状を説明し、本格的な治療は帰ってからするから、滞在中に痛まないようになんとかしてくれとお願いする。
「じゃあ、そこに座って」
彼が示したのは、日本やアメリカにあるような近代的な椅子とは違う、前時代的な雰囲気の黒い皮の椅子だった。
ヘッドレストは頭の両側を押さえるもの、昔に耳鼻科とかにあったようなタイプだ。電動ではないらしく、ペダルを踏んで椅子を倒す。
どうやらドリルとかはそれなりに近代的なものが揃っているようだったが、どれも少し古臭い。
処置室も薄暗い。
薄暗い中で、口の中を照らすライトだけが異様に明るく輝いている。
今一瞬の激痛を耐えるか、それとも出張中ずっと続く鈍痛を耐え続けるか。
僕はずうっとこのハムレット的な苦悩に悩まされていた。
だが、もうここまできたら後には引けない。
彼は、鏡の付いたバンドを被った。
これまた前近代的な、鏡の真ん中に穴が空いていて、それで手元を明るく照らすタイプのものだ。
こんなもの、今時日本では見かけない。
「じゃあ、口を開けて? どの歯が痛い?」
「ひょれ」
と人差し指で指し示す。
「……ああ、これは酷い」
歯科医は唸った。
「治療途中で放置したね。食べ物が詰まってそれが酸化して周りを溶かしてる。この歯は多分、もうダメだ。抜かないと」
「東京に帰ったら歯医者に行って相談しまふ」
頼む。今抜くのだけはやめてくれ。
「今回は痛みを取るだけにするけど、すぐに歯医者に行かないとダメだ。放っておくと骨までやられる……麻酔を打つからちょっと待って」
彼が打つ麻酔は思ったよりも痛くなかった。ひょっとすると以前通っていた歯医者よりも痛くないかも知れない。
「歯の中を掃除して、消毒薬を詰めるよ。おそらくそれだけで痛みは取れると思うけど、念のために薬も出そう」
高速回転するドリルは使わなかった。
手で差し込む針のようなドリルで少しずつ中を削っていく。
不思議と痛くない。
気がつくと、僕はかなりリラックスしていた。
「そうそう、落ち着いて。力を抜けば痛くなくなる」
歯科医はそう言って最後に綿に薬を浸したものを穴に詰めた。
「上は開けておこう。中の圧力が上がるとまた痛くなるかもしれないから」
歯科医はそう言って一度顔を上げた。
だが、すぐにまた僕の口の中を覗き込む。
「いい歯なんだがなあ。今すぐなら間に合うかもしれないけど、今から治療するかい?」
「いや、東京に帰ってから」
「イスラエルの医療は進んでいるんだよ。何しろ兵士が怪我しまくるからね。歯痛もよくある……こっちでやって行った方がすっきりすると思うんだが。もし抜きたいんだったらそれもできる。どうする?」
「いや、いいです。お金ないし」
「そうか」
彼は頭から鏡の付いたバンドを外すと椅子を起こした。
「まだ麻酔が効いているから痛くないと思うけど、痛くなったらこれを飲みなさい。五日分入ってる」
そう言って袋に入った薬を渡す。
治療費は五百三十米ドルだった。
「帰ったら、旅行保険で精算するといい。保険で精算できるようにうまく診断書を書いてあげよう」
陰鬱だけど親切な歯科医ははわざわざ診断書まで書いてくれた。
「いいかい? 必ず歯医者に行くんだよ?」
「はい」
素直に頷く。
「何を食べてもいいけど、その歯に穴が空いていることは忘れないようにね。綿が詰まってるだけだから。歯を磨く時もその歯は気をつけて。あまり強く磨かない方がいい」
だが、痛みが引いた後に僕がその言葉を無視したのは言うまでもない。
結局東京に帰ってきた後も、僕は歯医者には行かなかった。
+ + +
さて、その後その歯がどうなったかというと、イスラエルでの治療が効いて五年ほどは無事だった。
イスラエルにいる間も、その後痛みが出ることはなく、僕は自由に食事をすることができた。ちょっと薬くさかったけど。
だが五年後、日本にいるときに同じ症状が出た。
再び歯医者の扉を叩き、状況を説明する。
日本の医者はイスラエルの医者ほど優しくはなく、かつ治療も何だか痛かった。
無論麻酔は効いたけど、微塵も優しさは感じられない。
哀れな僕の歯は結局三つに割られて抜かれる羽目になり、口の中は血だらけになった。
おそらく、イスラエルで治療していたらそこまで大変なことにはならなかっただろう。イスラエルの歯科医の手際は本物だった。戦場で培われた経験の成せる技なのかも知れない。
みんなも、くれぐれも歯は大切に。
そうしないと美味しいものも美味しく頂けなくなってしまう。
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