マウンテン・オイスター
フィンランドのタンペレという街に一軒だけスペイン料理屋がある。
タンペレの路地裏にあるひなびた古いお店なのだが、雰囲気は完全にスペイン料理屋だ。クラシックなドア、ちょっと煤けた感じの壁。中は二階に別れていて、二階は吹き抜けに面したテラスになっている。フィンランドのログハウスとかで良く見る作りだ。
もっとも、スペイン料理とはいうものの、実のところこの店の実態はスペイン風フィンランド料理(逆か、フィンランド風スペイン料理?)と言ったほうが正しいかも知れなかった。
メニューの半分以上はフィンランド料理だ。
トナカイのステーキは当然、トナカイのシチュー、フィンランド風サーモンフィレステーキ(サーモンフィレを大きな杉の板に載せて周りをマッシュ・ポテトでデコレーションし、これを直火やオーブンで丸焼きにしてしまうという暴力的なお料理。供される時、大概の場合、杉の板の隅の方は炎をチラチラさせながら燃えている。ロイムロヒという名前だったと思う)がメニューの上段を占めている。
もちろん、パエリアなどのスペイン料理もあったが、タパスはなかった気がする。
そこの名物料理の一つがマウンテン・オイスター。
ただ一つ、とても気がかりなことに、これを完食するとこのお店が認定証をくれるのだという。
その日、僕たちはプロジェクト・ミーティング後の夕食でそのスペイン料理屋に集まっていた。
総勢二十人以上。二階のフロアがほとんど全部僕たちのグループで埋まってしまっている。
メニューブックはなく、メニューはテーブルマットを兼ねた紙に書かれていた。
とりあえず飲み物を頼んだ後でメニューをじっくりと眺める。
フィンランド料理をここで食べるのはつまらない。
かと言って、この店のスペイン料理はどうも怪しげだ。
「マウンテン・オイスターがいいぞ」
と、何を食べようかとメニューを見ながら悩んでいると、ユッシが横の席から囁いた。
「マウンテン・オイスターって、何よ」
「食えば、判る。旨いって奴もいれば死にそうになる奴もいる。面白いぞ。しかもそこの美人のウェイトレスとの記念撮影付きだ」
ニヤニヤ笑っている。
ユッシの性格を考えると、妙なものを勧めるとは思えない。
でも、あの笑い方はどうにも気になる。
だいたい、認定証をくれる料理ってどうなんだろう。
「メールアドレスもくれるかな」
「そりゃくれるさ。俺らの会社の名前はこの国では絶対だ」
僕たちのテーブルについたウェイトレスは確かに大変な美人だった。
透き通るような白い肌、蜂蜜のような色の髪、あくまでも青い瞳。
しかも若いし、フィンランドの水色に染められたメイド服も、その中身のスタイルもとても素敵だ。
しかし、なんでこの国の女性は三十を過ぎると丸くなってしまうのだろう。それまではとっても綺麗なのに。
「わかったよ。じゃあ、マウンテン・オイスターにしよう。写真、欲しいし」
そういう訳で、僕はマウンテン・オイスターをオーダーすることに決めた。
どうやら他にマウンテン・オイスターを食べる人はいないらしい。
しかもだ、マウンテン・オイスターをオーダーしたらその美人のウェイトレスはえらくびっくりした顔をした。
よほど僕との記念写真が嫌なのだろうか?
周りを見てみると、全員がニヤニヤ笑っている。
これは、いかん。
悪い予感しかしない。
それでもウェイトレスは何事かメモに書きつけると、後ろで縛ったエプロンドレスの紐をチャーミングに振りながら去って行った。
「お前、やるなあ」
向かいに座ったヤリが言う。
「初めて来て、あれを頼むとはなかなかだ」
「いいチョイスだろ?」
とユッシが笑う。
「グッド・チョイスだ。グッド・ジョブ、ユッシ」
ヤリが両手の親指を立てる。
しばらくの間、みんなでワイワイとワインを飲む。ワインはちゃんとスペインワインだった。飲みすぎると翌日頭が痛くなるあれだ。
やがて、プロジェクトの愚痴を言ったり駄弁ったりしているうちに頼んだメニューが運ばれ始めた。
チロチロと燃える杉の板に乗ったサーモン、何かの肉のステーキ、何かのフライ。
僕の頼んだマウンテン・オイスターは一番最後だった。
「やあ、来た来た」
ユッシが笑う。
「さあ、食ってくれ。面白いぞ」
旨い、じゃなくて面白いのか。
僕の前に供された大きな皿にはいつものように山盛りのマッシュポテト、その上に日本のコロッケとちょうど同じくらいの形・大きさのフライが四つ乗っていた。
上からは茶色いグレービーソースのようなものがたっぷりとかけられている。
「じゃあ早速」
僕は最初の一切れにナイフを入れた。
切った途端に、白っぽいクリーム状のものが溢れ出る。
これは、クリームコロッケみたいなものか?
どこがオイスターなんだろう。
意を決して一切れ口に放り込む。
すぐに口内にクリーム状のものが広がった。かすかに甘く、とてもねっとりとしている。
口の中に広がる芳香は、確かにオイスターのそれだった。だが、それ以外にも何かの香りがする。
何だろう、これ?
でも、旨い。
すぐに一個目を片付け、僕は二個目に取りかかった。
カニクリームコロッケみたいな感じだ。
日本のトンカツソースが欲しくなる。
「気に入ったか?」
ヤリとユッシがドキドキ……という感じでこちらを見つめている。
「うん、美味しいな、これ。気に入ったよ」
僕は答えた。
「でも、何だろうな、不思議なフレーバーがする。これ、何?」
「当ててみ?」
とユッシ。
判るわけがないだろう。
それでも、僕はもぐもぐしながら必死で考えていた。
この鼻をくすぐる、ちょっと生臭い匂いには覚えがある。洋食ではない。どちらかというと日本料理? それも、刺身系?
やがて、僕は答えに辿り着いた。
これは、白子だ。タラの白子の香りだ。
「ひょっとして白子か?」
僕はユッシに言った。彼は日本料理への造詣が深い。というか、日本に来るたびに無茶なものを食べさせられている。
「惜しい。惜しいなあ。マウンテンなんだぜ」
ユッシは親指と人差し指を使って自分の股間に裏返しのOKマークを作った。
「これだよ」
「はあ?」
なんのこっちゃ。
ヤリはすでに腹を抱えて笑っている。
訳がわからんという顔をした僕を見て、ユッシは説明した。
「ヤギの睾丸のフライだよ。ヤギの睾丸ってデカいらしいんだ。それをスライスしたフライさ。気にいる奴は気にいるし、それを聞いてトイレに駆け込む奴もいる」
残念ながら、僕は前者だった。
世界中で変なものを食べているのだ。
それくらいで怯む僕ではない。
「へえ、そうなんだ」
僕は平然と答えると三個目に取りかかった。
「ふーん、お前、本当に肝が据わってるんだな。こんなに平然としてるのは初めてみた」
とヤリ。少しつまらなそうだ。
「日本人だったらみんなそんなもんじゃない?」
「いや、そんなことはないよ。Aさんの時は面白かった。見る間に顔が白くなったからな。一気に酔いがさめたらしい」
ま、その気持ちもわからんではない。
ヤギの睾丸のスライス四つはしかし、少し多すぎだった。マウンテン・オイスターの匂いはかなり鼻に突く。四つは少し、日本人には多い。
と、僕がマウンテン・オイスターを食べ終わったのに気付いたのか、先ほどのウェイトレスが近づいてきた。
「お名前を頂いても?」
とメモ紙を差し出す。
「サインが欲しいのかな? ひょっとして俺、モテてる?」
とユッシに囁く。
「馬鹿、認定証を作ってくれるだけだよ」
「何だ、つまらん」
僕はローマ字で自分の名前を書いた。
「読み方も教えておいたほうがいいぞ」
ユッシが言うので、読み方も教えてあげる。
そのメモ紙を持って裏に戻ったウェイトレスは、しばらく経ってから何かの紙切れを恭しく持って再び現れた。
僕の前に立ち、その紙を前に掲げて勅令か何かを読むかのようにその内容を読み始める。
ただし、フィンランド語なので何を言ってるのかはさっぱりわからない。まるで魔法の呪文の詠唱のようだ。
「なんて言っているんだ?」
僕はユッシの脇を肘で突っついた。
「『お客様の勇気を評してここにこの認定証を差し上げます。お客様は当店のマウンテン・オイスターを完食した五八〇番目のお客様です』だってよ」
その後記念撮影をし、さらに苦心惨憺した上で彼女からメールアドレスもゲットした。
「やるな、お前。そのメアド、俺にもくれな。彼女は美人だ」
飢えた狼のように仲間たちが僕の周りにどっと群がる。
その間にその美人のウェイトレスはとっとと姿を消していた。
そのメールアドレスがフェイクでメールが届かなかった(あるいは彼女が間違えたのか?)のは言うまでもない。
その時に撮った写真と認定証は今でも僕の部屋に飾ってある。
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