6 待合室
ふと肌寒さを感じて、襟元に毛布を引き寄せようとすると、その前に誰かの手が伸びてきて、俊太郎が望む位置まで毛布を引き上げてくれた。
「ん……あり……」
無意識に礼を言いかけた俊太郎は、そこではっと目を開いた。
眼前に、黒い合成皮革に覆われた安っぽいベンチの背中があった。
自分の体は駱駝色をした毛布にすっぽりと包まれており、右頬の下には灰色のパーカーを丸めて作った即席の枕がある。さらに、その枕の向こうには、色の褪めたジーンズを穿いた人の膝があった。
「何でっ!?」
絶叫しながら俊太郎は跳ね起きた。床に目をやれば、脱いだ覚えのない自分の靴がベンチの前にそろえて置かれている。
「何でって……おまえが寝てたから、毛布借りたんだよ。一枚じゃ足りなかったか?」
即席枕の枕は驚きつつも、俊太郎の質問になっていない質問に答えを返した。
昼でも夜でも、この男は完璧なまでに美しい。絶対誰にも明かすつもりはないが、俊太郎は今までこの男より美しいと思った男にも女にも会ったことがない。が、それはそれ、これはこれだ。
「そうじゃなくて! 何であんたがここにいるんだよ、友部!」
「『妖魔課』から連絡もらったから」
友部はあっさりそう答えると、ベンチからずり落ちそうになっていた毛布を引っ張り上げて俊太郎の両肩に掛け直した。
その一連の動きがあまりにもさりげなかったため、俊太郎は友部の手を振り払うタイミングをうっかり逸してしまった。
「連絡? 妖魔のDNA鑑定結果の?」
そもそも、俊太郎はその結果をいち早く知るためだけに、鈴木刑事たちと一緒にこの警察署に来て、二十四時間解放されているこの待合室――今現在の利用者は、俊太郎と友部の二人だけだった――で結果が出るのを、もちろん一人で待っていたのだ。
しかし、夕方にとった仮眠の時間が短すぎたのか、待っている間に眠りこんでしまったらしい。待合室の壁に取りつけてある丸時計を見てみると、俊太郎がここに来てから、すでに四時間以上経過していた。
これだけ時間が経っていれば、とっくの昔に鑑定は終わっているはずだ。あれほどすぐに教えてくれと頼んでおいたのに、どうして鈴木はそうしてくれなかったのだろう。
それとも、鈴木が知らせようとしたときには、すでに自分は熟睡してしまっていたのだろうか。友部に靴を脱がされて、ベンチに横にされても、まったく目覚めなかったほど。
「いや、それならここで直接聞いた。俺がもらったのは、おまえが山本亜紀と一緒に妖魔十二頭を狩ったっていう連絡。ちなみに、あの妖魔どもは今回の〝犯人〟じゃなかったそうだ。だから、依頼人から報酬はもらえないが、国から報奨金は出る。まあ、報酬から比べたら、小遣い銭みたいなもんだけどな」
「ああ、そう。……やっぱり」
ついそう呟くと、友部は意外そうに俊太郎を見た。
「わかってたのか?」
「いや……はっきりそう言いきれるほど自信はなかったけど、何となく違うような気はしてた。――そんなことより、何でおまえまでここに来たんだよ? 鑑定結果なら、また連絡するって言われなかったか? 〝犯人〟じゃないってわかったら、さっさと本当の〝犯人〟、捜しにいけばいいだろうが!」
俊太郎としては、精一杯冷たく突き放したつもりだったのだが――昼に会った友部なら、傷ついた顔をしていたと思うのだが――なぜか彼はにやついて、自分の胸元を人差指で三回つついた。
「さすがにもう御守袋はやめたんだな。ちゃんと本体が傷つかないように鎖をつけてくれてありがとう。でも、絶対誰にも見られないようにしてくれよな。俺以外には」
「あ……」
俊太郎は両手で自分の胸を押さえると、真っ赤になって友部を睨みつけた。
「見たのか! 勝手に!」
「一応断ったぜ。おまえ寝てたから、返事はもらえなかったけど」
「そんなんで断ったって言えるか! このセクハラ男!」
「そこは否定しないが、おまえがあんまり気持ちよさそうに寝てたから、どうしても起こせなかったんだ。ここは市内でいちばん安全な場所だからな。おまえもつい気がゆるんじまったんだろ」
――今まで誰にも見られないようにしてきたものを、二度と見られたくないと思っていた男に見られてしまった。
そのショックのほうが大きすぎて、俊太郎は友部の言葉をまともに聞いていなかった。
友部の左の薬指にはまっている、父親の形見の金の指輪。それと瓜二つの指輪が今、俊太郎の手の下にある。
もともとは友部の母親のものだった。十年前、俊太郎の前から姿を消す前に、いつかは自分のものになるからと言って友部がくれた。誰にも自分からもらったことは言うなと念押しして。
その日以来、友部に冷やかされたとおり、俊太郎はそれを御守袋に入れて常に持ち歩いていた。両親が妖魔に殺された後も。師匠の下で修業していたときも。それに鎖をつけてペンダントの形にしたのは、師匠と離れて暮らすようになった、本当にごくごく最近のことだ。
友部はこの指輪を人を呼び寄せる魔法の指輪なのだと言った。魔法云々はともかく、友部の親の形見の指輪を捨てられるはずもない。でも、それをペンダントにして後生大事に持っていることは、友部には絶対知られたくなかった。
「なあ、俊太」
赤い顔で服の上から指輪を握っている俊太郎に、友部は上機嫌で声をかけてきた。
「おまえさっき、何で俺にここに来たんだって訊いたよな。あと、何で〝犯人〟を捜しにいかないのかって。その理由なら簡単だ。おまえだ。おまえがいたからここに来て、おまえが起きるまでそばにいた。……無防備に寝てるおまえを一人残して、妖魔狩りになんか行けるわけないだろ」
――恥ずかしい。もう悪態もつけないほど恥ずかしい。
どうしてこの男は自分にそんなことが言えるのだろう。あんなにひどいことを言われたのに。こんなに恩知らずな態度をとられているのに。
「俊太。初仕事だから一人でやりたいっていうおまえの気持ちもわからないでもないが、今回はやっぱり俺と組まないか? この街にいる妖魔が〝犯人〟一匹だけだったならともかく、そうじゃなかったことは、おまえがいちばんよく知ってるはずだろ? ――実は三時間くらい前から、『妖魔課』が田中のジジイと連絡がとれなくなってる。そのお供の弟子たちともな。一応、ホテルのほうにも確認してみたが、田中組はまだ誰も戻ってないそうだ」
友部の説明を聞いて、俊太郎はたちまち真顔になった。
「まさか、妖魔に?」
「さあな。田中が自分から『妖魔課』に連絡してくるか、誰かが警察に通報してくるまで、あいつらが今どんな状況にあるかはわからない。でも、たぶん――」
友部は最後まで言わなかったが、俊太郎にもその内容は容易に想像がついた。「妖魔課」は鑑定結果を知らせるために、三時間ほど前に田中に連絡したのだろうが、もしかしたらその前から音信不通状態になっていたのかもしれない。
「うん。わかった」
不承不承、俊太郎はうなすいた。
「この狩りが終わるまでは……あんたと組む」
友部はにやっと笑うと、いきなり俊太郎を両腕できつく抱きしめた。
「俺は一生組んでもいいぞ! 俊太ー! 会いたかったー!」
「な、何!?」
狼狽して逃れようとしたが、友部はますます力を強めてくる。
「何って、三年ぶりに会えた喜びを体で表現してるんだよ。市役所じゃできなかったから、今までずっと我慢してた」
「何で今さら……とにかく離せ! 恥ずかしいだろ!」
ちょっと涙目になって俊太郎は叫んだ。
「恥ずかしいも何も、今ここには俺らしかいないだろうが」
「いてもいなくてもするな! こんなことするなら、やっぱり組まない!」
そう言って脅すと、友部は渋々俊太郎から手を離した。
「でも、俺と組むんだったら、山本さんとも組んだほうが……」
もう友部に抱きつかれないように、あからさまに距離を置きながら俊太郎が提案すると、一転して彼は不愉快そうに顔をしかめた。
「あの女は駄目だ」
「どうして?」
「俺が嫌いだから」
俊太郎は呆れて、しばらく何も言えなかった。
「そんな……子供みたいな……」
「子供みたいだけど、好き嫌いってけっこう重要だぞ。おまえだって、強いか弱いかじゃなくて、好き嫌いで師匠を選んだだろ?」
「まあ……確かに」
自分の知っている妖魔ハンターでよかったら紹介してやると騙されはしたが、それがわかってもあの師匠についていったのは、すでに彼に好感を抱いていたからなのだろう。
「でも、どうして山本さんが嫌いなんだ? そんなに悪い人には思えなかったけど」
俊太郎を横目で見ながら、友部はふてくされたように答えた。
「おまえにそう思わせるところが大嫌い」
俊太郎は顔が赤らんでしまうのを抑えることができなかった。
それに気づいた友部はにやにやしたが、その口から出たのは俊太郎をからかう言葉ではなかった。
「俊太、たとえばだ。人間も妖魔も自分の思いどおりに操れる妖魔がいたとしたら、いったいどうなると思う?」
俊太郎は照れるのを忘れて問い返した。
「何を突然……そんな妖魔使いみたいな妖魔がいるのか?」
「だから、たとえばの話だって。それに、妖魔使いに人間は操れない」
――妖魔使い。
その存在については、俊太郎は師匠から聞いて初めて知った。その名のとおり、自分の支配下にある妖魔を使って妖魔を倒すのだが、本来は敵である妖魔を使役するため、妖魔ハンターより強力であるにもかかわらず、表立って活動することはないという。
ようするに魔法使いのようなものですかと俊太郎が言うと、師匠は呆れたように笑った。
――まあ、間違ってはいねえが、悪魔使いとか精霊使いとかのほうが近いな。いずれにしろ、妖魔に気に入られた奴、妖魔より強い奴が妖魔使いになれる。……といっても、俺は今まで妖魔使いだっていう奴に会ったことはねえし、実際に会ったって奴の話も聞いたことがねえ。おまえも都市伝説の一種くらいに考えといたほうがいい。そうじゃなきゃ、自分の命張って妖魔ハンターしてるのが馬鹿らしくなってくる。
「いったいどうなるって訊かれても……本当にいたら厄介だなとしか言いようがないな」
困惑しながらも俊太郎がそう答えると、友部は満足そうに笑ってうなずいた。
「そう。本当にいたら実に厄介だ。たとえば、妖魔を必要以上に怖がってて、夜には絶対外出しない若い女がいたとする。そんな女でも、自分の部屋にいるときなら、夜に窓の外を覗くくらいのことはするだろ。でも、もしもそのとき、窓の外にそんな厄介な妖魔がいて、女に悲鳴を上げられる前に、暗示をかけてたとしたら? たとえば――何時何分に家を出て、玄関の鍵をかけてからどこそこまで来い、とかな」
俊太郎は目を見張って、友部を見つめた。
「友部……まさかそれって」
「あくまでたとえ話だよ。でも、もしそういう妖魔がいたとしたら、
「やっぱり? 友部もそう思う?」
勢いづいてそう訊くと、友部はにやりと笑った。
「そうか。おまえも自分でそう思ってたか。とにかく、もうじき夜が明ける。そうすりゃどこかで必ず誰かが何かを見つける。それまで俺らは
自分より一つ年上なだけでも、さすがに長く妖魔ハンターをしているだけのことはあって、その発言は合理的で説得力がある。
「うん……」
ちょっとだけ友部のことを見直しかけたとき、バタバタと廊下を走る足音とともに、鈴木の声が近づいてきた。
「友部さーん! 来ました、来ましたよー!」
ほどなく待合室の入り口に現れた鈴木は、友部に向かって何事か言おうとしたが、その隣で毛布にくるまって座っている俊太郎に気がつくと、一瞬なぜか硬直した。
「あー……北山さん、おはようございます。鑑定結果をお知らせしようとしたときには、よくお休みになってたんで、友部さんだけにお伝えしたんですが……もうお聞きになりました?」
すぐに結果を教えてくれと頼んでおいて、寝てしまっていたのは自分のほうだ。申し訳なさと恥ずかしさから、俊太郎は深々と頭を下げた。
「すみません、鈴木さん。あんなにしつこく頼んでおいて、すっかり眠ってしまって。結果は聞きました。〝犯人〟じゃなかったそうですね。ありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ、お待たせしてしまってすいませんでした。北山さんの鉄串は洗浄してお返ししたほうがいいですか?」
「いえ、自分で手入れをしますから、そのままで結構です」
「そうですか、じゃあ、今持ってきますんで、少々お待ちください……と、大事なことを言い忘れるところだった」
立ち去りかけた鈴木は、自分の額をぺちりと叩いて、再び友部に向き直った。
「たった今、新聞配達員から通報が入りました。損傷の激しい人間の死体が複数体、発見されたそうです。詳しいことは、これから現場に行ってみないとわかりませんが、スーツケースとクロスボウが近くにあったそうですから、たぶん田中さんたちじゃないかと……」
思わず友部を見上げると、彼は忌々しげに呟いた。
「見つけるのが早すぎるぞ、新聞配達員。やっと〝夜明けのコーヒー〟、飲めると思ってたのに」
反射的に俊太郎は友部を殴ろうとした。が、鈴木の存在を思い出し、どうにかその衝動を抑えこんだ。
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