5 妖魔課
あの日、師匠――松本総司があの海岸を通りかかったのは、仕事ではなく飲み屋からの帰りだったという。とりあえず、本人はそう言った。
もしかしたら、素人が妖魔ハンターの名前を騙っているだけの可能性もあったわけだが、俊太郎は自分の気持ちをわかってくれたということだけで、もうこの男のことを信用してしまっていた。
のちに、妖魔ハンターの真偽を調べる方法について、師匠はこう助言した。
――妖魔ハンター協会の会員証を見せてもらえ。たいていの妖魔ハンターは、仕事を紹介してもらうために協会に入ってる。今持ってないと言ったら疑え。入ってないと言ったら保留。その場合はどうすりゃいいかって? そりゃあもう、あれだよ。勘。
見た目でそうではないかと思っていたが、案の定、師匠は独り者で、狩りのとき以外は自堕落な生活を送っていた。最初の一年間は狩りの現場にも立ち会わせてもらえず、師匠の日常の面倒を見るのに忙殺された。
一人っ子で甘やかされて育ってきた俊太郎にとって、それは想像以上に大変なことだった。考えてみれば、他人と二人きりで暮らすのもこれが初めてである。自分は弟子なんだろうか、家政夫なんだろうかと悩んだのも、一度や二度ではない。
だが、二年目に入って、ようやく師匠は俊太郎に自分の技を見せてくれた。最初の一年は、俊太郎に本気で妖魔ハンターになるつもりがあるのかどうか様子を見ていたらしい。
師匠の武器は、対妖魔用に特別に作られた鉄串及びナイフだった。
――ハイリスク・ハイリターンだ。急所に入れば簡単にしとめられる。体力に自信ないからな。なるべく短時間で片がつきそうなのを選んだのさ。
師匠は軽くそんなことを言ったが、体力に自信がないというのは大嘘だった。
鉄串は銃弾と同じで、切らしてしまったらおしまいだ。そのため、狩りのときには五百本は身につけて持ち歩いている。
一本あたり約五十グラムの鉄串を五百本。総計約二十五キログラム。この他に、鉄串を収めるホルダーを身につけると、三十キログラムは軽く超す。子供を体に抱きつかせて歩いているようなものだ。その訓練のために、普段から重りをつけさせられたが、最初のうちはただ立っているだけでもつらかった。
しかし、俊太郎は弱音や愚痴は絶対に口にしなかった。自分は自分の意志でこの道とこの師匠を選んだのだ。あの優しい幼なじみを切り捨ててまで。
それまでの俊太郎の人生において、このときほど努力を重ねたことはなかった。
手先は器用なほうではなかったが、仕損じれば死ぬ。
俊太郎は睡眠時間を削って、コンクリートの壁に向かい鉄串を投げた。指と鉄串を血塗れにしながら、跳ね返った鉄串に体を傷つけられながら、ただひたすら投げつづけた。
コンクリートに確実に突き刺せるようになるまで三ヶ月。
思ったところに正確に投げられるようになるまでさらに二ヶ月。
この頃には、壁を走るゴキブリを一動作で串刺しにすることができるまでになった。
――なあ、俊坊。妖魔ハンターなんてのはな、よっぽど金が欲しい奴か、他に行き場所がない奴がなるもんだ。
師匠と出会ってから、一年半を過ぎた頃。
初めて師匠の狩りに同行させてもらえることになったとき、何気なく彼は言った。
――おまえはそのどちらでもない。早くハンターになって、早くハンターやめちまえ。ほんとはおまえ、帰れる場所はあるんだろ?
――……もう、ありません。
一つは妖魔に奪われて、もう一つは自分から捨ててしまった。
――まあ、今はそういうことにしておくか。
師匠は苦笑いして、俊太郎の髪をくしゃりと撫でた。
もう二度と会わないと決めた、あの男のように。
*
対妖魔用装甲を施した「妖魔課」専用パトカーとバンは、亜紀が通報してから約十分後に現場に到着した。そのときには、妖魔の死体は完全に砂状化していて、そのほとんどは田中の弟子たちによって回収されていた。
(とりあえず、〝エセ妖魔〟ではなかったな)
俊太郎はそのことに、ひそかに安堵していた。
実は妖魔はその出自によって二つに大別される。一つは生粋の妖魔。こちらは死ぬとそのまま砂状化する。もう一つが妖魔以外のものが妖魔化した妖魔。こちらも最後には砂状化するが、その前にいったん元の姿に戻る。ゆえに、後者を妖魔ハンターや「妖魔課」は〝エセ妖魔〟と呼ぶのだが、そうした妖魔の多くは〝元人間〟なのだった。
妖魔化する人間に共通点はほとんどなく、いまだに原因は不明のままだが、妖魔化してしまった人間は元には戻れず、記憶も人格も失ってしまう。そのため、〝エセ妖魔〟の存在は一般には知らされていない。俊太郎も師匠から教えられて初めて知った。
本物だろうがエセだろうが、妖魔には違いない。だが、やはり〝元人間〟だとわかると気分が悪い。これまで俊太郎が見てきた中では、だいたい三分の一が〝エセ妖魔〟だった。
「あー、やっぱり崩れちゃったかー。鑑識ー、一応写真撮って回収してー。――あのー、すいませんが、どなたか、崩れる前の妖魔の写真、撮ってはおられませんかねー?」
鈴木と名乗った中年刑事は、天然パーマらしい頭を掻きむしりながら、三人の妖魔ハンターたちの顔を見渡した。
「妖魔課」は、妖魔のDNAデータさえ入手できれば事足りるのだが、参考資料としてその妖魔の外観画像も欲しがっている。まめな(あるいはマニアックな)妖魔ハンターなら、「妖魔課」が到着する前に現場写真を撮っていることもあるが、たいていの妖魔ハンターはそんな面倒なことはしない。
自分たちの仕事はあくまで妖魔を狩ることにある。現場の写真撮影などしても「妖魔課」に感謝されるくらいで、一銭の得にもならない。
「あたしたちは撮ってないけど、たぶん、そちらの田中さんのお弟子さんたちが一枚くらいは撮ってるんじゃないかしら。とにかく、あたしたちが早急に知りたいのは、この妖魔たちが〝犯人〟かどうかだけなのよ。今はわざわざ警察署まで行かなくても、そのごっつい車の中ですぐに調べられるんでしょ? 違ってたら、また市内を歩き回らなきゃならないんだから、とっとと調べてくれない?」
苛立ちを隠そうともせず、亜紀は一気に言い放った。こういうときには彼女の押しの強さは非常に心強い。
「あー、それもそうですねー」
鈴木はばつが悪そうに苦笑いしながらも、田中軍団のほうを見て「写真あります?」と訊ねることは怠らなかった。
はたして、亜紀の推察どおり、田中の弟子の一人が、写真どころか動画で撮影していた。
「うわ、こんなにいたんですか? 何かイグアナみたいですねー。すいませんがこの映像、ダビングさせてもらってもいいですか?」
鈴木の感想を聞いて、俊太郎は自分以外の人間もそう思うのだと妙な安心感を抱いたが、彼の手が空いたのを見計らって、今まで塀際に置いていた鉄串入りのビニール袋を差し出した。
「あの……全部で十二頭いました。一頭分ずつ分けて入れてありますので、分析をお願いします」
それから、他の人間には聞こえないよう、そっと鈴木に耳打ちする。
「それと……すいません。分析が終わったら、この鉄串、全部俺に返してもらえませんか? これ、特注品だから高いんです」
「ほー、これ、あなたのですか?」
同行してきた鑑識員にビニール袋を手渡しながら、感心したように鈴木は言った。
「もしかして……あなた、松本総司さんのお弟子さんか何か?」
俊太郎は驚いて、鈴木のとぼけた顔を見た。
「師匠をご存じなんですか?」
「あー、じゃあ、そうなんだ。まー、狭い業界ですからね。何度かお会いしたこともありますよ。こんな鉄串使ってる人なんて、国内じゃ滅多にいませんからね」
鈴木は愛想よく笑うと、改めて妖魔ハンターたちに向き直った。
「えー、皆さん。今夜は大変お疲れ様でした。妖魔のDNA照合の件なんですが、一頭ならだいたい十五分くらいでできるんですけど、この車で十二頭分ともなるとねー。確実に一時間以上はかかっちゃうんですよ。この寒空の下でそんなにお待たせするわけにもいきませんから、今夜のところはここで解散ということにしませんか。結果が出次第、すぐに皆さんにお知らせしますから」
「どうしてそんなに時間がかかる!」
鈴木が言い終える前に、田中が彼に食ってかかった。
「どうしてと言われましても……これでも先月に比べたら格段の進歩ですよ。先月までは一頭だけで、三十分以上かかってましたから」
「こんなところで一時間も待っていられるか! 結果が出たらすぐに知らせろ!」
田中は鈴木を一瞥もせずに小さな背中を向けると、自分が来た方向へとのし歩いていった。その後を〝パウダー〟の詰まったスーツケースを提げた弟子たちがぞろぞろとついていく。
「あれじゃもう妖魔ハンターじゃなくて、どっかの組の組長よね」
その様を見て、亜紀が嘲笑する。
「でもまあ、確かにこんなところで一時間も待ってるのは、寒いし時間の無駄だわね。――しょうがないわ、今夜はちょっと疲れたから、あたしはこのままホテルに帰る。連絡は携帯のメールでちょうだい。メアドはとっくに知ってるんでしょ?」
「ええ、まあ」
決まり悪げに鈴木は肩をすくませた。誰もあえて指摘はしないが、「妖魔課」と妖魔ハンター協会とは、コインの裏表のような関係にある。
「で、坊やはどうする? この人たちと一緒に警察署に行けば、寒い思いはしないで結果待ちできると思うけど?」
亜紀の指摘に、俊太郎はなるほどと感心させられた。確かに、誰もここで結果を待たないことになれば、「妖魔課」もわざわざ狭い車の中でDNA鑑定をする必要もなくなる。それに、警察署内ならもっと早く結果も出るかもしれない。
「そうですね。そうすれば、すぐに結果がわかりますね。――すみません、鈴木さん。もし差しつかえなければ、俺も一緒に警察署まで連れていってもらえないでしょうか? ついでに、署内で結果を待たせてもらえたらありがたいんですが……」
俊太郎が丁重に鈴木に申し出ると、亜紀は珍獣でも見るような目を彼に向けた。
「坊や、ほんとにあの松本の弟子? 腰が低すぎるわよ?」
「ほんとにねー。反面教師ってやつですかねー」
驚いたことに、鈴木までもがそんなことを言ったが、結局「かまいませんよ、どうぞ」と笑って了承してくれた。
「山本さんも、ホテルに帰られるんなら、一緒に乗っていきませんか? ホテルの前までお送りしますよ?」
しかし、せっかくの鈴木の誘いを、亜紀は笑顔で断った。
「ありがたいけど、車は苦手なの。歩いてホテルに帰るわ」
「でも、またさっきみたいに妖魔が出たら……」
ついそう言ってしまってから、今のは失言だったかと俊太郎は後悔した。
案の定、亜紀は不服そうに眉をひそめている。
「ちょっと。さっきはたまたま一緒にいたから手伝ってもらったけど、あたし一人でも全部しとめられてたわよ。だいたい坊や、あのとき妖魔の気配に全然気づいてなかったじゃない。あたしがいなかったら、坊やのほうが危なかったんじゃないの?」
「すみません。おっしゃるとおりです。申し訳ありませんでした」
俊太郎は素直に頭を下げた。自分の死んだ母親も含めて、女に口では絶対に勝てない。
「もういいわよ」
亜紀はふっと表情をゆるめた。俊太郎の判断は正しかったらしい。
「坊やは単純に、あたしの心配をしてくれたんでしょ? ほんとに坊やって、あの松本の弟子とはとても思えないほど優しいわよね。松本も友部も、坊やのそういうとこを気に入ってんのかしら」
「……え?」
予想もしていなかった名前を出されて俊太郎は亜紀を見たが、その視線を避けるように彼女は身を翻した。
「じゃあ、また明日。ビンゴだったら報酬は山分けしましょ。ハズレだったら……また最初から仕切り直しね」
亜紀は前を向いたままそう言い残して、足早にその場を立ち去っていった。
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