第3話 家庭教師来たる
数日後、待望していた家庭教師の先生がやってきた。
この数日間、暇で暇で仕方が無かった。何せ人形遊びくらいしかする事が無いのだ。
中身はいい歳の社会人である私が、人形でごっこ遊びとか流石に辛い。
ならば何故にしたのかと言えば、お供が居なければ城の中を一人で出歩く事も出来ないからだ。イルゼを含めて数人の侍女がゾロゾロと付いて来るので、意味も無く歩くのは何かこう申し訳ない気分になってくるのだ。慣れねば。
まあ良い。何にせよ、家庭教師だ。
これで文字を読めるようになるだろう。たぶん、きっと。
ちなみに家庭教師は若い女性だった。恐らくは私が女性なせいだろう。
私はまだ色気の欠片も無い子供だが、この世の中にはペドフィリアという幼い女性に対して欲情する特殊性癖もあるので、娘を持つ親心として万全には万全を期したのだと思う。
いやまあ、この世界に於いてペドフィリアが特殊性癖として認識されているかは判断が付かないので「女の子なら教師も女性だよね☆」という、至極フランクな理由かもしれないけれども。
「アーデルハイト御嬢様。お初にお目にかかります。
時と運命を司りしノルニルの導きによって、伯爵閣下より貴女の家庭教師を仰せつかったハイデマリー・フォン・エッツホルンと申します」
「ん、私はアーデルハイト。よく来てくれた、ノルニルのお導きに感謝する」
私がそう言うと、ハイデマリーと名乗った女性は目を丸くする。
「まあまあまあまあまあ!挨拶がきちんと出来るだなんて、素晴らしいですわ!」
そう言うと、ハイデマリーは手を組んで笑みを浮かべた。
「ですが、まるで殿方みたいな朴訥な喋り方ですわね?」
「そう?」
まあ何というか、私もわかってはいる。
何故か目下の者に話しかける際には、異様なくらいぶっきらぼうな喋り方になるのだ。
でもこれは、私ことアーデルハイト自身の元々の喋り方だ。
私が表に出てくる前のアーデルハイトが、目下の者に向けていた喋り方なのだ。
……イルゼに聞いた限りでは、召使に対してはとても気難しい娘だったらしい。
ある程度気を許していたイルゼくらいしか、まともに世話が出来なかったそうだ。
まあつまり、この目下のものと話すときのボソボソとした喋り方は私が紛れも無くアーデルハイトでもあり、彼女と私が全くの別人では無い証なのだ。
今の状態を転生であるとして、あれを前世と呼ぶならば、私は何故か突如として前世の記憶が蘇ったアーデルハイトという事なのだろう。
言語に関する記憶がきちんと生きているのだ。恐らくアーデルハイトとしての記憶も、そのうち徐々に思い出せはするのだろうと思う。
「喋り方の矯正は、おいおいやって行きたいとは思っている。
それよりも、先ずは文字を教えて欲しい」
「……本当に、先ず最初に文字を学びたいのですね」
感心したような表情で、ハイデマリーは呟くようにそう言った。
うーむ、この歳の娘が文字を積極的に学ぶというのは、かなり奇異なのだろうか?
そんな事を考えていると、私はどうやらしかめっ面になっていたらしい。ハイデマリーが少々慌てた表情を浮かべる。
「申し訳ありません。我がエッツホルン男爵家は、代々オルデンブルク伯爵家の家臣であり、かつ家庭教師を務める者を輩出している家系で御座いまして……」
つまり、このハイデマリーの親や祖父母が、御父様の家庭教師だったり、御爺様の家庭教師だったりしたわけなのだろうか?
……それはひょっとしなくても、鞭が背後でヒュンヒュン聞こえる教育環境になりそうな気がするのだけれども、それは果たして私の勘違いなのだろうか?
「謀ったな、御父様?」
「はい?」
「何でも無い、続けて」
いけないいけない、思わず愚痴ってしまった。
「あ、はい。僭越ながら、代々の領主様やそのご家族は、活動的な方が多かったらしく、勉学を勧めると逃げるから見張らねばならぬと言われておりましたので、進んで文字を覚えたいと言われますとその、聞いていた話と違って違和感が」
「無礼。だけれども正しい。
御爺様や御父様から、2人が勉強嫌いであったという話は聞いている。
御爺様や御父様派のみならず、御父様の姉君と妹君である伯母様達も勉強嫌いであったという話も。
更に言うとオルデンブルク伯爵家の者は、代々勉強よりも武の修練を好むという事も聞いている。貴女の懸念は道理に適っている」
ハイデマリーの懸念は御尤もだと思う。
私の知る限り二代続けて全員勉強嫌いなのだから、私が勉強嫌いだと思われていても、それは当然というものだろう。
何とも申し開きのしようも無い。たぶん私がこうなる前のアーデルハイトも、勉強嫌いだったと思う。
「ただ、私はその懸念には、あまり当て嵌まらないと思う。
今の私はこう見えて、知識欲の権化。まかせて」
まあ知識欲の権化と言っても、取り敢えず暇過ぎるから本が読みたいだけではあるのだけれども。
……さて、文字の勉強だが、予想以上にあっさりと習得出来てしまった。
習得時間は大体午前中いっぱい程度。つまり数時間。
まあなんというか、この世界の文字はアルファベットに非常にそっくりだった。
なので、だいたいその応用で、何とかなってしまったのだ。
「……驚きましたわ。先祖伝来の文字習得用教材を、ほぼ丸ごと使う前に終わってしまうとは」
軽ーくサラッと教えただけで私が文字を覚えてしまったので、ハイデマリーは呆気に取られている。
当たり前だと思う。私もハイデマリーと同じ立場だったら、何事かと思うだろう。
でもしょうがないだろう?わかっているものに対して、延々とわからないフリをするのは楽しくない。
「でもハイデマリー。文字を覚えただけでは、本は読めない」
「アーデルハイト様であれば、すぐに覚えられる気がするのですが……?」
アルファベットのような表音文字を使った文章の常として、言葉の発音が変わったのに単語としての綴りは変化していないという事がままある。
既に発音していない省略された音が、文字の綴りには入っていたりするのだ。
そういうのは読んで慣れて覚えて行くしかない。つまり、ここからがハイデマリーの正念場という事だ。
「文字と文字を使った綴りは別物。読み方を理解出来なければ、単語の意味を間違えかねない」
「綴りと読み方の違いを把握してらっしゃったとは……。
そこまで理解されているのであれば、教えずともだいたい読めるようになられるのではありませんか?」
ハイデマリーは、何か傷ついたような表情で私を見る。
いや、そんな目で見られても困るというか。
転生してしまったものは転生してしまったのだから、しょうがないと思うのだ。
「可能性が有るだけで、結果は未定。そもそも私は子供だから、習得済みである語彙の量に限界がある。
つまりハイデマリー。貴方に教わらないと、私が分からない言葉は沢山ある。
だいたい読めるようになるのでは困る。きちんと読めるようになりたい」
これは紛れも無く本当の事だ。
日本語では表現出来るが、アーデルハイトとして覚えているこの言語で表現出来ない言葉はかなり多い。
何故表現出来ないかと言えば、当たり前の話だと思う。7歳の子供の知識と単語とが結びつくかどうか、限界があるのは当然というものだ。
このギャップを埋めるには、間違いなく家庭教師であるハイデマリーの助けが必要不可欠だろう。
「ホントですかー?」
「ホントホント、ウソジャナイヨー」
ハイデマリー。訝し気な視線を私に向けるのは、居た堪れない気分になるのでどうかやめてくれなさい。
言いたくても言えないので、心の中でだけ呟いた。
「……アーデルハイト様が、とても頭の良い御方だというのは理解出来ました」
「我が事ながら、恐らく7歳児としては頭の回る方なのではないかとは思っている。
でも、あまり買い被られても困る。
私は余りにも物を知らず、世を知らず、教わるべき事は膨大故に」
現在の視点だと近世か近代の欧州ドイツな世界っぽい感じはするし、ひょっとすると近世のドイツそのものなのかもしれないが、詳しくはわからない。
周囲の状況を俯瞰するには知識が足らな過ぎるのだ。
その為には文字を覚え、単語を覚え、本を読んで知識を出来得る限り手に入れる必要がある。
家庭教師になれる程度の教養が有るハイデマリーに助けて貰わないと、間違いなくかなりの茨の道になるだろう。
「だから私に教えて欲しい、ハイデマリー」
「かしこまりました。私が知る限りの知識は、全てアーデルハイト様に差し上げられるよう、精進させて頂きますわ」
ハイデマリーは私に静かに、かつ優雅に一礼してくれた。
良かった良かった。家庭教師に逃げられたりしたら困る。
それはそれとして、私はハイデマリーに纏わる予てからの懸案事項を口にした。
「1つ提案が有る」
「何でしょう?」
ハイデマリーは笑顔で私を見る。
ちなみに彼女はかなり若い。恐らく十代後半だろう。綺麗というよりも可愛らしい顔を笑みに変えている。
この容姿でかつ、このくらいの時代であれば、そろそろ結婚していてもおかしくは無い年齢だと思う。
心配するまでも無く、既婚者かもしれないけれども。
「ハイデマリーが言ったように、私は頭が良い。だから鞭は不要」
「伝統で御座いますから」
予てからの懸案事項とは、ハイデマリーがずっと握っている乗馬用鞭である。
あれで叩かれたら間違いなく痛いだろう。痛いというか、蚯蚓腫れになる。
「学業に武器は要らないと思う。必要なのは平和と共存共栄」
「これは鞭ですわ、学習器具であって武器ではありません」
私の学習環境に於いては絶対に不要なので手放すように伝えたが、しかしハイデマリーは笑顔で首を横に振った。何故だ。
何故にハイデマリーは、あの怖そうな凶器を持っているのか。
ハイデマリーは学習器具と言ったが、あれで一体どのような教育を私に施そうというのか、恐怖しかない。
おかしい。私はこれでも領主の娘では無かったのか。
「詭弁」
「御手厳しい……ですが、鞭はエッツホルンの象徴にして魔術の発動体で御座いますれば、手放すわけにはまいりませんわ」
魔術……とか、言われたわけだが。奇術師か何かなのだろうか、彼女は?
「魔術?」
私は思わず首を傾げてしまった。
だってそうだろう。魔術とか言われたら、首を傾げるのは当然というものだ。
そんなものが有る世界は、間違いなく近世のドイツでは無い。
基督教が信仰されていない時点で、何となく気づいては居たが、私の知る世界とは少しばかり違う世界らしい。
「はい。魔術にございますわ。《明かりを灯せ》」
「おお」
ハイデマリーの鞭の先に小さな灯が点いた。
素晴らしいけど、原理がさっぱりわからない。
私は随分とファンタジーな世界に、生まれ変わってしまったようだ。
「私も出来るようになる?」
「貴族とは魔法を行使する為の術、すなわち魔術が出来る者に御座います」
これは何というか、本格的にファンタジーな世界らしい。
貴族は魔術を使えるが故に貴族。力有る者が力に劣る者を支配するという構図は、非常にわかりやすい。
それにしても、貴族が魔術を使えるという事は御父様達も使える筈なのだけれども、全然使っている所を見なかった。
まあ見なかったというか、馬脚を現さない為に部屋に籠っておとなしく人形と遊びつつ、イルゼが居る時は一緒に情報の摺合せを部屋で行うという引籠りな生活をしていたから、見る機会が無かったのだろう。
ハイデマリーに会わない状態で御父様たちが魔法を使ったら、思わず仰天してしまったに違いない。危うく頭隠して尻隠さずになってしまう所だった。
「そして魔術とは貴族の体内にある魔力を、森羅万象に宿り漂う精霊に食べさせて魔法へと変換する術に御座います。
アーデルハイト様は、魔術に興味を深くお持ちのようですね、良い事ですわ」
「面白そう、ある程度まで文字を読めるようになったら、そちらも教えて」
魔法に関しても早急に情報を集める必要があるし、何よりも説明しているハイデマリーが貴族なら使えるのが当たり前のような話をしていた。
つまり、これも文字を読む事と並行して、しっかりと習得する必要性があるだろう。
「飽く迄も文字の読み方からですのね……お父様から聞いた話だと、惣領様は真っ先に魔術に興味を持たれていたらしいですけれども」
「興味は有る。でも、文字と読み方を覚えておけば、ハイデマリーが居ない時でも知識が得られる」
前世では産まれた時から情報の海に溺れながら生きてきた身なので、情報は出来うる限り多く欲しいのだ。
PCやインターネットはおろか、TVやラジオすら無いこの世界では、それを得る手段は兎に角本を読むしか無い。
幸い私は読書も趣味であり、文字を読む事は一切苦痛にならない性質である。
まして暇であるならば、尚更。読書は私の無聊を慰め、知識をもたらしてくれる事だろう。
「ではハイデマリー、教えて」
「かしこまりました」
こうして私は文字の読み方を教えてくれる教師を迎え、要約退屈から解放される足がかりを得たのだった。
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