99:小さくて強い花・2
花乃は目を見開いた。
群がる生徒達よりも明らかに頭一つ分以上高い、その背丈。
光を浴びて薄い金色に滲む髪の色。
ここから判るのはたったそれだけなのに、もうまばたきもできない――
「本当に、最後までむかつく人だったわ、あなた」
栞はそう言って、花乃の背を押した。
「結局、何もかもかなえてしまうんですもの」
魔法が解ける
証書とスマホを手に呆然と立ち竦む花乃の前で、生徒達の人垣は割れる。
彼の周りからも自分の背後からも、わきあがる悲鳴のようなもの。歓喜の声に再び呑まれそうになった彼は、だがその手の仕種で生徒達の動きを制したあと、並木を歩いてきた。
「おそい」
石のように固まったままの花乃に向かって彼は言った。花乃との距離を並木一間分あけて立ち止まった彼の姿は、逆光でよく見えなかった。
彼はそれから何も言わない。何が起こっているのか、わからない。
「――どうして?」
やっとのことで声が出たが、それだけ絞り出すのが精一杯だった。あらゆる意味の不安と戸惑いをこめて発した言葉は、誰かに聞こえるかどうかも怪しいほど幽かで、震えていた。
震えているのは声だけじゃない。
手も足も、視界からも、急速に現実味が失われていく。
「どうして」
それしか繰り返すことのできない花乃の目に映るのは、いつもの呆れたような微笑。
その両手をゆっくりとたった一人に向けて差し出して、たった一言、
「迎えに来てやったんだ」
そう、彼は言った。
愛しさだけじゃなかった。怒りも哀しみも、何もかもが体の中を逆流した。涸れ果てたはずの涙はやっぱり熱くて、光に滲む視界の中に、それでもその姿だけはしっかりととらえられた。
次の瞬間、その距離を花乃は超えていた。
「センセイ――センセイ、どうして……!」
ひどい勢いで飛び込んできた小さな身体を抱き上げるようにして受け止めた英秋は、肩にしがみついて泣きじゃくる花乃の髪をなでて笑った。「お前を凌ぐ名演技だっただろう?」
「演技って……ひどい、ひどい……どうしてなの、わたし、もう」
すっかり混乱してしまった花乃は、英秋にしがみついてわんわん泣くことしかできなかった。何が本当で何が嘘なのかも解らない今、彼がここにいることだけが紛れもない真実だった。
「お前は生徒じゃない、俺は教師じゃない。もうこれで何の問題もないんだろ?」
「だめ、あるよ……! 何でそんなこと言うの、だって」
花乃は頭を振り乱した。
「わたしのせいで先生が、一番大切なもの、なくしちゃったのに!」
花乃の思いを守るために英秋が犠牲にしたものが、彼にとってどれほどかけがえのないものだったかを知っている。
彼の夢を守るために――そのために手折ったはずの恋。
それが目の前にある、その意味。
この現実は、花乃にとってもっとも恐れたことのはずだった。それでも、心の底から嬉しいと思ってしまう自分が許せなかった。
泣きわめきながらごめんなさいと繰り返す花乃を、英秋は強く抱きしめた。
「……一番大切なものなら、手離したりしないんだよ、俺は」
魔法が解けても、もう、その花が枯れることはない。
佳乃はざわめく人々の中で、その光景を見つめていた。
今もっとも的確に自分の感情を表現するとすれば、「悔しい」という形容詞が一番しっくりくる。子供の頃からずっとずっと大切に守ってきた憧れの姉が、こんな風にいとも簡単に奪われてしまうのを目の前で見せつけられて、正直英秋に対する怒りは沸点を超過した。
今飛び込んで引き離せないのは、ひとえに花乃のためだ。そうに決まっている。
「ちょ、ちょっと、ちょっと佳乃! 花乃と一緒にいるアレ誰ー!」
いつのまに駆けつけたのか、母親が全身を揺さぶる勢いで佳乃に掴みかかってきた。父親は血の気の失せた顔で立ち竦んでいる。これは帰ってからも一悶着あるなと佳乃は確信した。
(……あいつ、父さんと同じ道を選んだんだわ)
夏のあの日、屋根裏で芳彦に聞かされた話を思い出す。
紫乃と出逢って、彼女が自分の夢になったと言った父親。
教師という夢よりも、花乃を選んだ英秋。
犠牲を生む恋を花乃は恐れていたけれど、両親の姿を見ていれば、それが不幸だけに繋がるとは思えなくなっていた。
(何よ、カッコつけて、ペテン教師のくせに)
元教師と教え子、そして9才の年の差。実際はもっと障害となる条件が揃っているのだが、きっとそんなもの問題にしないだろう、あの二人なら。
それを解ってはいるものの、まだ釈然としない佳乃は、負け惜しみのような口調でぼそりと呟いた。
「――花乃の、恋人でしょ」
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