100:誰も知らない未来の話
「なんか思い出しちゃった。劇でやったじゃない、ホラ」
「ああ、明石から帰った源氏と紫の上の再会シーンだっけ?」
ものすごい喧噪に包まれた校庭で、顔を見合わせて笑うのは千歌と翔子。それとは反対の、校門にほど近い校庭の隅から少し遠巻きに様子を見ていた忍は、ふうと一つ息を吐いてこぼした。
「あーあ、これが純泉堂の伝説になるんだろうなあ」
学園で出逢った源氏と紫の上の物語。かなうはずがないと決めつけていたそれを叶えてしまった二人にはもう、怒りや恨めしさを通り越して、驚嘆と感激しか湧いてこなかった。悔しいけれど、完敗だ。
忍はしばらく重なり合った二人の影を見つめたあと、帰ろうと踵を返したところで、耳をつんざくブレーキ音に出くわした。
真っ赤な車から飛び出してきたのは、他でもないほのかだった。
「――やられた……!」
彼女の第一声は、並木の騒ぎを見た瞬間に思わずこぼれたらしい本音だった。飛び込んでいくなら阻止しようと柱の影から身構えていた忍は、意外にも彼女がそれ以上身動きしないのを見て、そっと近づいた。
驚いたのは、近づいて初めて、彼女が泣いていることに気付いたことだった。
「上杉さん」
ほのかは振り返り、赤い目で忍を見て眉根を寄せた。「あなた……何してるのよ」
「帰ろうと思ってたんですけど」
そう馬鹿正直に答えた忍に向かって、ほのかは怒りもあらわに怒鳴った。
「何を言ってるの? アレを見て何とも思わないわけ!? バカにされるにもほどがあるわよ、許せない……!」
逆上するほのかとは裏腹に、忍はどこか清々しい微笑みを見せた。
「上杉さんは、本当に磐城先生が好きだったんですね」
言われたことが信じられない、といった目で忍を見返し、ほのかは言葉を失った。彼女が動揺するのは初めて見るけれど、こうしてみると年相応の部分もあるようだと忍は思った。
「――バカ言わないでよ。このあたしを差し置いてあんなちんちくりんを選ぶ趣味の悪い男、誰が好きになるものですか。英秋が破いてなかったらあたしが破いてやったわよ、こんな婚姻届」
ほのかは握りしめた右手をポケットから取り出した。開いた掌には、小さく千切られた白い紙の破片が雪のように積もっていた。
昨夜は英秋の部屋で、二人でささやかな祝杯を上げた。互いの契約の完了と、生涯をかけての同盟締結に乾杯を交わし、普段は手をつけない高いワインを何本も空けた。どういうわけか英秋も饒舌で、機嫌を良くしたほのかは勧められるがままに飲み続け、不覚にもソファでそのまま眠ってしまったのだ。
昼近くに目覚めたとき、英秋の姿はどこにもなかった。嫌な予感がして書斎へ走ったほのかは、机の上に残されたものを見て絶句した。
先月末付けの退職願のコピー。そして、粉々に千切られた婚姻届。
何が起こったのか理解するのに、そう時間はかからなかった。
――彼の計画が、成り立とうとしている。
自分の掌の上で転がしているつもりだった男に、見事に裏をかかれてしまったのだと、ほのかはそのときに初めて気付いたのだ。
「まったく、憎たらしいったらないわね」
呆然とする忍の目の前で、ほのかは勢い良く右手を頭上に向かって振り上げた。それは風に乗って、白い花びらのように並木に舞う。
ばらばらになった、生涯の大計画。
「せいせいしたわ。勝手に不幸になればいいのよ」
「またそんな、縁起でもないことを……」
忍が呆れて苦笑を漏らすと、ほのかはふんと鼻で笑って見せた。
「それにしてもあなたも、さっぱり甲斐性のない人ね。あんな子に何回もふられて。これからどうするつもりなの?」
甲斐性なしと言われるのは初めてかもしれないなあと妙なところに新鮮みを感じながら、忍は専門学校に行くことを伝えた。専攻は写真だと言うと、ほのかは「へえ?」と反応を示した。
「じゃあ、いつかどこかのスタジオで会うこともあるかもしれないわね」
「いや、あはは、どうでしょうね」
「本当に弱気ね、自信を持ちなさいよ。――そうね、夢みたいな話だけど、あなたがいつか夢を叶えて大物になれたりなんかしたら、あたしがあなた専属になってあげてもいいわよ?」
(またこの人は途方もない冗談を……)
忍は笑って受け流した。けれどそれから長い時を経て、世界的なスーパーモデルと気鋭のカメラマンの恋の行方がワイドショーで取りざたされるのもまた、誰も知らない未来の話。
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