98:小さくて強い花・1

 わたしに、おしえてくれた人

 歓びも哀しみも愛しさもやるせなさも、

 あなたを思う何もかもを養分にして育つ、

 その小さな花を、恋と呼ぶことを――。



「あ、いたいた! 忍くーん! こっちこっち、全員揃った?」

 式終了直後のホールは卒業生と保護者、そして花道を作る後輩達で進退もままならない状態だった。

 混雑の中、出口でなんとか筒形の証書ケースを受け取った千歌と花乃は、皺だらけの証書をさっさとその中に納めてから見知った顔を探していた。

 すでにクラスメート達とは何枚も写真を撮ったし、他クラスや後輩男子からも記念撮影をせがまれたりもした(どうやら文化祭の姫君が二人も揃っていたのが原因らしい)ので、残すはいつもの委員会メンバーくらいだった。

 少しばらけ始めた人混みの中にうろうろする忍を発見した千歌は、花乃の手を引いて駆け寄った。忍も「ああ、いたいた」と顔を綻ばせ、二人の元へやってくる。

「他のみんなは、先に校庭の方へ行ってるってさ。どうする、教室とかも撮っていく?」

「……うん、そうだね」

 三人はホールを抜け、昇り慣れた階段をゆっくりと踏みしめた。最初は息の切れたこの道のりも、今ではすっかり慣れて平気になった。踊り場の窓から見える中庭や校舎の風景を眺め、この一年にあったことなどを話しながら8組までやって来た三人は、自分の席に寝そべってみたり、壁の懐かしい落書きと一緒に記念撮影したりと思い思いに名残を惜しんだ。

 教室後方の自分の席でこの光景を目に焼き付けていた花乃は、不意に立ち上がって教卓の前までやってきた。

 そろり、机に触れる。静かな水面に触れた時のように、胸に広がる波紋。

「花乃……大丈夫?」

 式最中の花乃の慟哭を察していた千歌と忍は、ひどく心配そうな顔で尋ねたが、当の花乃は彼らよりもむしろすっきりとした顔をしていた。

「うん。大丈夫だよ、もうぜんぶ受け止めた」

 彼がもういないという事実。彼の夢を守れなかったという事実。

 ひどく辛いけれど、それはもう変わることのない事実でしかないのだと。

 胸の奥に残る棘の痛みは、きっとこれからの時が解決してくれる。それを待つしかない。

「佳乃ちゃんも言ってたもんね、いいことも辛いことも、全部わたしを作るんだ」

 本当に沢山のことをおしえてくれた――人を愛することも憎むことも、希望も絶望も。


 嵐のように去来する感情の波に幾度も呑まれ、それでもその花は枯れなかった。

 これほど揺るぎないものを自分が持っていたなんて、想像もしなかった。

 何度も何度も傷ついて倒れそうになったけれど、そのたびによみがえる。

 背筋を伸ばして、その花はまだ咲いている。


「一番変わったの、花乃かもしれないね」

 千歌の言葉に、花乃は間の抜けた顔で「そうかなあ?」と首を傾げた。

 相変わらずマイペースなのだけれど、かつての頼りなげな守ってオーラは、身の内に一本、まっすぐに張った強さに変えられていることに、誰もが気付いていた。

 忍がさりげなく頷き、「じゃあ二人で撮ってあげるよ」とカメラを構えたそのとき、ばたばたと廊下を駆ける激しい足音が校舎中に響いた。

 何事かと廊下側の窓から顔を覗かせた三人の目に飛び込んできたのは、毎度ながらあの長い黒髪を振り乱して走ってくる栞の姿だった。

「湯浅じゃん」

「どうしたんだろ……あっ、記念に一緒に写真撮ってもらおうかな」

「あんた、よくもアレと一緒に撮る気になれるわね」

 あきれる親友を後目に、スマホを持って教室を出た花乃は、栞に向かってぱたぱたと手を振った。「湯浅さあん、一緒に写真……」


「こんのおバカーーッ! こんなところで何バカ面さらしてますの!」

「へっ、ご、ごめんなさ」

 反射的に身をすくめて謝ろうとする花乃の腕を力一杯掴んで、栞はいきなり走り出した。

 開口一番怒鳴られたショックで思考回路の止まった花乃は、ろくな抵抗もできず、引きずられるようにしてついていくことしかできない。慌てる忍や千歌の声も、背後からあっという間に遠ざかった。

「??? ――ゆっ、ゆあささん、待って、どこに」

「だまらっしゃい! もう、最後の最後までむかつく人ね!」

 腕に抱えている証書とスマホを落とさないように気をつけながら、栞の横顔を盗み見ると、彼女は花乃の危惧したような心底怒り狂っている様子ではなかった。興奮も冷めやらぬ状態なのは確からしく、珍しく頬を紅潮させていて握られた手も熱かったが、その表情はどこか喜びのようなものを含んでいるように見える。

 あっという間に階段を駆け下りて、靴を履き替える暇も与えられずに飛び出したのは校庭。

「え、写真撮るつもりだったの? だったらそんな慌てなくても」

 栞は答えず、どんどん足を速めた。校庭に集まる同級生達をかき分けてまだ走る。その中で、自分たちを発見して驚く佳乃や夕子達の姿が視界をよぎったが、もう手を振る元気もなかった。

 このままじゃ、校門まで出てしまう。

 いい加減にどうにかしなきゃと思ったところで、栞は急に立ち止まり、一転して突き放すようにして花乃の手を解放した。


 そこは校舎から校門へと続く並木道。

「も、もう………な、なんだったの湯浅さん……」

 身体を二つ折りにしてぜえぜえと呼吸を繰り返す花乃に、栞は顎でそれを示した。

 示された方向、そこには校門の柱を中心にして、一つの人だかりが出来ていた。

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