97:羽ばたく決意
いつだって意地悪で、なのに本当はとても優しくて。
演技ばかりしているのに、ただの一度も嘘をついたことはなかった。
我が侭を聞いてくれた、紅茶を飲んでくれた。
そして、自分の言葉で聞かせてくれた。
教師になるのが夢だったんだと――わたしに、そう言ってくれたのに。
「うそつき……」
証書に皺が寄るほど強く握りしめて、全身で痛みに耐える花乃の肩に、ふわりと腕が回される。隣の千歌が抱きしめてくれたのだとすぐに解ったが、身動きができなかった。
目の奥の温度がどんどん上がっていく。堤防は決壊する。息を止めて嗚咽を殺したまま、花乃はこぼれ落ちる涙の熱さにおののいた。こんなに哀しいのに、まるで燃えているようだ。
(センセイのせいだよ、わたしまで、約束守れなかった)
ちゃんと前を見て卒業するって決めたのに、もう顔も上げられない。耳に飛び込んでくる音楽も拍手も声も、何もかもが全身にひどくしみて、痛みにしかならない。それから解放されたいがために、一刻も早くこの場所を出たいとさえ思った。
その時、千歌が花乃の肩を揺さぶった。
「花乃、ヨシが前に出たよ。え……ヨシ、答辞だったの?」
「卒業生代表、3年3組、関口佳乃」
花乃が涙を拭って壇上を見ると、確かに佳乃が階段を上っているところだった。リハーサルでは時間の都合でこの練習は飛ばされていたために、当日まで誰がそれを行うのかは知らなかった。けれど、首席で卒業する佳乃にその役が巡るのは至極当然のことかもしれない。
彼女はいつでも凛として、恐れるものなど何もないように見える。
こんな風に、弱みの固まりで出来ている自分とは大違いだ。
強くて潔い、憧れの妹。
(わたしが佳乃ちゃんみたいに強かったら、何か変わっていたのかな……)
佳乃は胸元からあらかじめ用意されていたらしい原稿を取り出したが、しばらくそれを開きもせずに見つめたあと、何故か再び胸元にしまってしまった。そして間髪入れずに口を開いた。
「あたし、それはそれは協調性のない生徒でした」
花乃のみならず、その場にいた誰もがぎょっとして目を見開いた。もしここにいても驚かなかった人がいるとすれば、それは拓也くらいのものだろうと、佳乃は自分でも内心苦笑していた。
「マニュアルが大好きなくせに、人と協力しあうことはとても苦手で、学校に通う意味なんてないと思ってるような子供でした。楽しいと思えることの方が少なかった。この学校へ来たのも、本当はいい大学へ入るための踏み台にするだけのつもりだったし」
国内屈指の伝統と偏差値を『踏み台』と豪語する生徒に、保護者や教師達はやや色めき立ったが、佳乃はそれをものともしない顔で平然と続けた。「でもなんか、楽しかったんです」
(佳乃ちゃん……)
「それはあたしだけじゃなくて、卒業するみんなも、ここに残るみんなもそうだと思う。みんなそれぞれの思い出があるだろうし、きっと楽しい思い出だけじゃないだろうけど、それも全部、あたしたちを育ててくれたものなんだろうなって、実感してます。あたしだってこんな変なアドリブの舞台度胸ついちゃったの、文化祭のおかげだしね」
生徒達はどっと笑い、その声に胸を張って佳乃は声を張り上げた。
「だからあたしは、この学校に感謝しています。純泉堂で沢山の友達や先生に出会えたことはきっととんでもない幸せで、忘れることの出来ない思い出です。あたしたちはそれぞれこの場所を巣立つけれど、ここで過ごした時間を誇りに、立派に羽ばたいていきます」
力強く言い切る佳乃に、生徒も保護者も感嘆の拍手を送ったが、当の本人は虚をつかれたように目を丸くしたあと、もごもごとまごついていた。シメの言葉を考えてなかったらしい。
「ええと……まあ、この約束を答辞に代えさせていただこうかなと思います。最初で最後のあたしの脱マニュアル、聞いてくださってありがとうございました。卒業生代表、関口佳乃」
大きな拍手の中、階段を下りる際に佳乃は花乃に目配せをよこした。やってやったわよ、とその目は言っていて、花乃はみんなと一緒になって何度も何度も手を叩いた。
哀しみに呑み込まれかけていた卒業の意味が、花乃の中でもう一度よみがえる。
(うん、わたしも、ここの生徒でよかった。誇りにすることができる。だって本当に楽しかった……今はすごく辛いけれど、それでも、もし先生に会えなかったらなんて、考えられないもの)
涙は頬を流れ続けていたけれど、それは周囲の誰もが同じ状態だったので、もう無理に止めようとは思わなかった。
全員で初めて歌う「仰げば尊し」は、広い講堂に反響して、退場の時でさえもずっと余韻として耳の奥に響いていた。
羽ばたいていこう。いつかこの別れをバネに、新しい世界を見つけられるように。
あなたに会えて良かったと、心の底からそう思える日が来るように。
(もう言えないけれど……センセイ、今までありがとう)
――どうか、しあわせになって。
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