96:卒業証書授与
「花乃……」
佳乃は唇を噛んで、花乃の手を余計に強く握りしめた。温かかった。
いつも支えてくれたその優しさに縋って、このやるせない想いも全部吐き出してしまえたらいい。けれど、それはできない。
ぜったいに泣きたくない。
意地でもいい、情けなくてもいい、でも、確かに先生に約束したんだ。
先生に心配をかけないように、わたしは、ちゃんと前を向いて卒業するって。
「佳乃ちゃん、みんな、行こう」
支えようとする佳乃達の手を強く引いて、花乃は歩幅も大きく歩き出した。驚く佳乃達に笑い返す余裕はさすがになかったけれど、講堂を毅然と見据えて歩くその足は止めなかった。
折良く卒業生集合のアナウンスがかかったからか、講堂の裏にはもう随分と生徒達が集まり始めていた。各クラスの担任が整列を呼びかけたので、佳乃と夕子は一旦ここで離れなければならなかったが、佳乃は最後まで花乃の手を離そうとしなかった。
「またあとでね、佳乃ちゃん。ほら、いってらっしゃい」
やんわりとその手をとき、妹の背を押す。何度も振り返りながら人混みの中に紛れていった佳乃を見送ったあと、花乃たちも8組集合の合図で担任の鈴木教諭のもとに集まった。
他のクラスには担任と副担任二人の姿があるのに、ここだけは一人しかいない。クラスメートはそれが信じられない様子で、ざわざわと一際騒がしく担任に詰め寄っていた。
「先生、ヒデ先生辞めちゃったって本当なの?」
「そうなんだよな。とにかく人気があったから、学校側からも雇用継続の話が行ってたみたいなんだがなあ。いつの間に理事長と話つけたんだか、他の先生たちに知らされたのものも今月半ばだったぞ」
「結婚するって本当なのか?」
「らしいなあ。いや、まあでもあれだけ若くてもてれば当然のことだろうけど」
「いやーっ、ショック~! せめて今日くらい来て欲しかったよーっ!」
「ミホね、ヒデ先生のこと好きだったんだって。わあ、ミホ泣かないでよ~」
女生徒の中には感極まって泣き出す子もいて、周囲のクラスメート達はこぞって慰めに徹した。花乃はそれを遠目に見ていた。足りなくなってしまったのだと、解った。
(あなたのために生徒が泣いてる。卒業式には、あなたが必要だったんだよ、センセイ)
どれだけ感動的な式になっても、わたしたちには、やっぱりひとかけら足りない。
いるべき人がそこにいない、そのことは一生の思い出に小さな風穴を開けてしまうだろう。
(だれも、センセイのかわりには、なれないのに……)
生徒達の動揺もあってか整列には時間がかかったが、開始予定時刻にはどうにか間に合い、クラスごとの列は整然と裏庭に並んだ。こうやってみると、やはり大きな学校だったのだと改めて感じる。全員の名前は知らなくても、旅行や文化祭では協力しあうことのできる学年だった。
一組から始まった入場は、すぐに花乃達のクラスまでやってきた。裏庭から講堂の入り口へ回り、ホールを抜けると、大きな拍手の音に包まれる。両脇に来賓席が連なり、その中央を二列で歩いていくと、来賓席の先頭中央を陣取る芳彦と紫乃の姿を見つけた。二人は花乃の姿を発見するやいなや、遠慮も何もなくぶんぶん手を振り、フラッシュの閃光を放ちまくった。
花乃は少し笑い、用意された自分の席に腰掛けた。
手渡されたパンフレットを開く。校歌斉唱に始まり、理事・校長挨拶、証書授与、祝辞、送辞と答辞、仰げば尊し斉唱、退場までのトータル一時間半。
数えるほどしか歌ったことがない校歌を何度も音をはずしながらも唄いきり、いつもならすぐに眠ってしまう校長先生の話も、まじめに聞いた。一番時間のかかった卒業証書の授与の間も、ずっと舞台の上に現れては去っていく生徒達を見つめていた。
(パッヘルベルのカノンだ、なつかしいな……)
講堂に消え入りそうな響きを残すのは、小中学校の卒業式でもいつも奏でられていた柔らかく切ないクラシック。好きでも嫌いでもなかったこの曲が、今日は身体中に染みこんで、眠っていた色々な思い出を呼び起こそうとする。
早くもすすり泣きの声の混じり始めた講堂で、花乃は小刻みに震える両手を膝の上で握りしめて深呼吸をした。
「関口花乃」
壇上から担任の呼ぶ声がして、花乃は立ち上がった。
思ったより緊張はしなかった。まだどこか欠けたような、夢を見ているような気持ちで壇上に上がる。
そこで校長から差し出されたもの。
それは、楽しかった高校生活に終わりを告げる紙。
「卒業、おめでとう」
『おめでとう』――まばゆいライトの中で、重なるのは彼の声。
『誕生日、おめでとう』
あの日言ってくれたように、できることなら聞きたかった。その声で。
そのとき初めて、この魔法は完全に解ける。それが、たったいま解ったのに――
(センセイがいない)
受け取めた瞬間、それは一気に花乃の身体を打った。
これ以上はないほど静かで激しい衝撃。白く眩い光に目がくらむ。
受け取った証書を胸元に抱きしめて、花乃は必死の思いで壇上から駆け下りた。
(わたしが好きになった先生はもう、この学校のどこにもいない)
息を止めて早足で席まで戻るのが精一杯だった。拍手も音楽もすすり泣きも聞こえない。自分の鼓動の音と、突如理解した事実のあまりの重さに押しつぶされそうだった。
(どうしてなの)
(どうしてなの、センセイ)
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