95:センセイの幸せ

 式よりも随分早く学校に着いたけれど、 すでに昇降口や廊下は卒業生や後輩達でいっぱいだった。あちこちできゃあきゃあと騒ぎあう嬌声が聞こえ、カメラのフラッシュにたびたび視界は白く濁る。早くも校門のあたりで夕子と、昇降口で忍や千歌と顔を合わせた双子は、周囲と同じように胸の高揚や緊張を笑い声と一緒に発散した。

「あーあ、ついに来ちゃった。花のJKジョシコーセーの肩書きも今日でお終いなんて! いやー!」

「よく言うわ、花のJDジョシダイセーになるくせに。サークルだコンパだって騒いでたのどこの誰」

「それはそれ、これはこれよ。人は期間限定の旬ものこそを追い求める傾向にあるのよ」

「意味わかんないんですけど」

 いつも通りの佳乃と夕子の漫才も、今日はやはり何かが違うと思った。この光景も見納めになるものだと思えば、それだけでもう涙腺は悲鳴を上げそうだ。

「写真は式が終わったあとに校庭で撮ろうって言ってるの。みんなで撮るんだから、先に帰っちゃダメだからね」

「あっそうか、未来の敏腕カメラマンがいるもんね。福原くん任せた、綺麗に撮ってよ」

「うわすごいプレッシャ~……」

 あははと笑いあいながら、花乃はちらほらと姿を現し始めた礼装の教師達を目で追った。いるはずがない、それは解っている。けれど、どうしても視界の端に映る姿に条件反射してしまう。

 教師達の多くは、卒業生に囲まれて写真を撮ったり、話をしたり。

 きっと彼がいれば、ものすごい騒ぎになっただろうな、と花乃は少し笑った。

「あ、どうだったー! 磐城先生はー!」

 人混みの中から突如聞こえた叫び声に、花乃は竦み上がった。全身の硬直とは裏腹に、その目は即座に大声を上げて手を振る女生徒をとらえた。

 目前からやってくる彼女が、花乃たちの背後、教室の方から駆けてくる同級生に向かって何かを叫んでいる。どうやら、英秋を捜して走り回っていたらしい。

 人混みをかき分けて手を振る少女のもとに行こうとしていた生徒は、波に呑まれて思うように進まないことに痺れを切らしたのか、ちょうど花乃達とすれ違う位置で大声を張り上げた。

「ダメ、先生、いない――」


 解っていたこと、望んだこと。

 それでも、かすかに落胆する自分。

 だが、彼女の言葉はそれだけでは終わらなかった。


「ヒデ先生、もう、学校には来ないんだって!」


 周囲のざわめきが一瞬にして静まりかえったのは、きっと花乃の幻聴ではないはずだった。

 耳を疑う。夕子も忍も千歌も、目を丸くしてその悲痛な報告を聞いていた。


「先生、結婚するからって、学校、辞めちゃったんだって――」



 不意に、強く手を握りしめられる。つながるのは傍らの佳乃の手。

 誰もが突然の事態に驚く中で、片割れだけが花乃を見ていた。

「花乃……しっかり」

 氷のような花乃の手を握りしめ、佳乃は思いだしていた。

 あの日、資料室で目にしたプリントと婚姻届、そして。

(それだけは許さないって、言ったのに、アイツ……!)

 清々しいほど白い紙に毛筆で書かれた、『退職願』の3文字を。


(どうして、先生)


 ――先生が好きだった。先生の夢が、好きだった。

 全てをなげうっても守りたかった、たったひとつのもの。

 花乃のそれは、魔法のリミットを前に、あまりにもあっけなくその姿をかき消した。



 花乃は、周囲に倍の喧噪が戻るまでの間、じっと立っていた。

 佳乃の手が妙に熱くて、離れがたい。どうしてだなんでだと大騒ぎする女生徒達の悲鳴があちこちで聞こえるが、まるで他人事のように右から左へと通り抜けて、少しも現実味がなかった。

「花乃ちゃん」

 最初に声をかけたのは、忍だった。花乃がはっとして顔を上げると、忍のみならず佳乃や千歌、夕子までもがじっと自分を見つめていた。何か言わなければと思うのだが、声が出なかった。どんな顔をすればいいかも解らなくて、ただばかみたいに呆然としてしまう。

「……どうして、こんな急に。辞めるなんて一言も言ってなかったじゃないか」

 忍は神妙な顔で呟いたが、その声に今までの張りはない。

 千歌は黙って、心配そうな顔で空いた方の手をぎゅっと強く握ってくれた。佳乃とは対照的に、ひんやりと冷たい指。懐かしい温度――センセイの手も、いつも冷たかった。


「……せんせいは、もう、せんせいじゃないのね」


 あの手は、もう二度と出席簿を持つこともないのだろうか。広い黒板をいっぱいに使って板書をすることも、長い指で配布プリントを捌くことも、その大きな手で生徒達の頭をなでることも。

 最初で最後の生徒達の巣立ちにも立ち会わずに、その夢を捨てたの?

 それが、センセイの幸せだったの?

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