94:卒業前夜

 何故か妙に機嫌の悪い佳乃と家路について、ちょっとリラックスして、いつも通りの夕飯のあとお風呂に入って、冷えた身体をほっこり暖めてしまえば、あとはもう寝るだけだった。

 なんてあっけない卒業前夜。

 もっと激しい感傷に見舞われるかと思っていたけれど、窓の外に浮かぶ小さな月を眺めて紅茶を飲むこの時間は、いつもと変わりない静けさに満たされている。

(先生は、これからもこんなふうに、紅茶を飲んでくれたりするのかな……)

 その相手が誰であろうと構わない。せめてあの紅茶の味さえ、覚えていてくれれば。

(明日は、できるだけ泣かないでいられるように頑張ろう)

 ひとつ涙をこぼしてしまえば、きっと最後まで泣きっぱなしになってしまうことは今からも予想できる。それも、母校との別離とは全く別の未練に涙が乗っ取られることは瞭然だった。

 我慢が必要。英秋と約束したのだから。

 ちゃんと卒業するまで、いい生徒でいると。


 紅茶のカップが空になったのを機に、花乃は立ち上がってクローゼットから予備のブレザーと学帽を取りだした。冬休みに入る前にクリーニングに出して以来、卒業式用にとしまいこんでいたブレザーは、ぴんと背筋良くのりのきいた状態で最後の出番を控えていた。

(これ着るのも、明日で最後なんだよね。地味だったけど、結構好きだったな、制服)

 ビニールカバーを剥がし、ポケットにハンカチ、手鏡、ティッシュを移し替える。そして左胸の内ポケットに生徒手帳を入れようとしたところで、花乃ははっとしてその中を探った。

「あ、これ、こんなところにあったんだ」

 小さな花の模様のついた、桜色の小袋。『えんむすび』とひらがなで書かれた可愛らしいその御守りは、佳乃が修学旅行で買ってくれたものだ。

 彼女の恋をずっと見守り導いた因縁の御守りとまったく同じ姿を持つ、いわば自分たちと同じような双子の御守りだった。

 いつから入れっぱなしにしていたのだろう。そう考えて、ひらめくように思い出す――

(文化祭の日。先生に、初めて会った次の日だ……)

 佳乃の恋の顛末を聞かされて、自分もそんな恋がしたいと思った。あのときはスーツの王子様の存在も知らず、予感も予兆も何もなかった。ただ憧れだけで胸元に忍ばせたもの。

「先生に出会って、恋をしたことは、もしかしたらあなたのおかげだったのかな?」

 どさくさで神様に頼むには、手に入れた思い出は充分すぎるご利益だと思う。胸に去来する様々なビジョンと思い出を一緒に胸ポケットに閉じこめて、花乃は大きく深呼吸をした。

(一緒に見届けてね。最後までいい子で頑張ろうね、わたし)


 月が揺らぎ、時計の針がかちりと頂点で一つになる。

 それは、魔法の期限の到来。残された最後の一日、その始まりを告げる合図だった。



 魔法が解けても

 わたし、きっとわすれない



「ねえ花乃、変じゃないかな? 髪とかもちゃんとしてる?」

「うん大丈夫だよママ、髪もくるくる。スーツも決まってるし、ばっちりだよ」

 階段を下りるやいなや、駆け寄ってくる一張羅の母親に花乃は笑って応酬した。確か入学式の日も同じようなやりとりをしたことを覚えている。紫乃もそれを思い出したのか、細い眉を八の字に歪めて、嬉しいのか悲しいのかわからないような表情で笑った。

「やだ、もう三年もたっちゃったのね。本当に子供の成長の早いことったら……あっいけない!」

 早くも潤み始めた目をおさえ、それによりマスカラを滲ませたことに気付いた母親が慌てて洗面所へ駆け込んでいくのと入れ違いに、リビングから佳乃が顔を出した。

「おっはよう花乃! 準備は出来てる?」

「うん、朝ご飯も食べたし。佳乃ちゃんがいいなら、もう行こうか?」

「あ、待ってリボンと帽子取ってくる!」

 ほこりひとつない黒いブレザーには襟がなく、シャツの大きなセーラーカラーを引き出してようやくそれらしく見える。式典の日には、それにボルドーのラインとリボンをつけ、ベレーによく似た学帽をかぶるのが一応の規則だった。

 いつもと違うオプションは、その重みと同じだけの緊張と誇らしさを与えてくれる。

 来賓として後から式にやって来る両親に行って来ますの挨拶をしたあと、階段を勢いよく下りてきた佳乃と手と手を取り合って、双子は最後の通学路を駆けだした。

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