80:ウェールズの王子様・2
丁寧に、言い聞かせるように話しながらも花乃の手は止まらない。温まったポットから湯を捨て、スプーンのようなもので缶の中からくるくるした茶葉を移し替える。沸騰したケトルの湯を、腕を高く持ち上げて一気にポットに注ぎ込む。蓋をしてミトンのような小袋を被せ――そこでようやく手を止めた。
ぼんやりとそれに見入っていた英秋は、呆れと感嘆の混じったような声音で呟いた。
「魔法か……なるほど、まるで人が変わるんだな。お前のそんな俊敏な行動が見られるとは思わなかった」
「わたしに魔法が使えるなら、きっとこれくらいしかないよね。でもあんなにすごい佳乃ちゃんも、パパもママも、いつもわたしの紅茶を喜んで飲んでくれる。それだけで幸せなの」
持ち上げたポットをふわりと空中で一度躍らせてから、ストレーナーを通して二つのカップにゆっくりと注ぐ。たっぷりと湛えられた濃い飴色からは、柔らかな円を描きながら湯気が舞上がった。
ティーカップに、ソーサー、そして添えられた小さなティースプーン。
――これがいまのわたしにできる精一杯のプレゼント。
「本当は迷ったんです。お菓子にしようかな、とか……でもセンセイ、甘いもの嫌いな気がしてやめたの。紅茶にも色々あってね、大好きなフォションのアップルティーとか、時期的にセントバレンタインとか、取っておきのキャッスルトンのオータムナルとか、他にもいっぱいいっぱい迷ったんだけど、やっぱりこれにしました」
目の前に置かれたカップからは、さりげなく――しかししっかりとした存在感を伴った香り。英秋はカップを手に取り、花乃の言葉を黙って聞いていた。おそらく銘柄かと思われる単語は一切理解できなかったが、花乃の自信に満ちた瞳を見ているだけでその意気込みは伝わってくる。
「いい香りでしょう?」
「そうだな……花みたいな匂いがする」
花乃も自分の分のカップを手に取った。静かな空間、向かいあう二人。芳香に充たされる。
いつもならミルクと砂糖をたっぷりといれて飲む花乃も、この日はプレーンティーの深い色に唇をつけた。それに続いて、英秋もゆっくりとカップを口もとで傾ける――
「……なんか、深いな。じわじわ口から身体の奥に広がっていく感じ」
感想にしては抽象的な表現だったが、花乃は嬉しそうに身を乗り出した。
「センセイ、紅茶も美味しいでしょう?」
「思ったより甘くないっていうか……こんな味だったんだな。少し予想外だったよ」
「イギリスのトワイニングのブレンドティーなんです。蘭の花の、すごくいい香りでね」
黒い缶をくるりと英秋に向けて、強く微笑む。
「プリンス・オブ・ウェールズっていうんです」
「へえ、英国皇太子の称号か」
「うん、イギリスの王子様。この紅茶がやっぱりセンセイに一番似合うかなって」
英秋は怪訝な顔で花乃を見返した。温かなカップを両手で包みこんで、その芳香を深く吸いこんでから花乃は口を開いた。「えっとね、深くて、ちょっと大人っぽい味も香りもそうだけど」
吸い込んだ香りで自分に魔法をかける。落ちついて――まっすぐに伝える勇気を。
「センセイは、わたしの王子様だったから」
しんと、降り積もる静寂と温度。英秋は顔を上げ、まっすぐに花乃を見ていた。目に見える感情はすべて内に押し殺して、ただ真摯な視線の強さだけを向けてくる。花乃はそれを真正面から受けとめなければならなかった。
「最初に資料室ですごまれた時はやっぱり怖かったけど、でも、出会った時からセンセイはわたしの王子様だった。倒れたわたしを運んでくれたり、わたしひとりのためにちゃんと補習をしてくれたり、……勝手なお願いも叶えてくれたり、優しかった。それが嬉しかった」
だから甘えていた。ただ夢中で、綿菓子のような夢に飛びこんだ。
「ずっとお嫁さんに憧れていて、やっと人を好きだって思って、幸せだった、わたし。 でも」
この香りはわたしの勇気。
あなたにかけられた魔法を、今だけ封じこめる。
「わかったの。幸せになれる恋と、そうでない恋があること」
それは、本当。
「わたしとセンセイはきっと、二人とも幸せになれないって。傷付けあう関係でしかないって」
それは、本当。
「嫌いになったって言っても信じてもらえないから、ちゃんと言うね。わたしといると、センセイに迷惑がかかる。センセイが辛いとわたしも辛い。わたしには何も出来ないから」
それも、本当。
「そして何よりも、センセイといると、わたしがすごくつらい。センセイとじゃ幸せになれない」
――それは、
「だから、もう好きでいられない。 わたし、ただの生徒に戻ります……磐城先生」
せいいっぱいの、わたしの勇気。
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