81:ウェールズの王子様・3

 本当は、最初に飲んだときの印象がそのまま残っていて、どちらかというとクセのある味わいが少し苦手な紅茶だった。ミルクと砂糖で濃いめに味を調えて飲むことが多かったけど、センセイみたいな紅茶を、と考えながら、改めてプレーンティーを味わったときに、その香りに魅入られてしまった。

 まるで、この恋、そのもの。


「……ただの」

 英秋はゆっくりとカップに添えていた手を離して、花乃の言葉を反芻した。「生徒、か」

 肯定でも否定でもないその呟きは、数日前に資料室で行く先を塞いで逃げるなと言ったその強さなど微塵も残していなかった。拘束の力を持たず、何の用途も成さない言霊。

 花乃は微かに戸惑ったが、大いに安心したのも確かだった。また同じように諌められたら――触れられたら、この決死の努力さえ水の泡になってしまうかもしれなかったから。

「うん。えへへ、ごめんなさい、わたしが一人で勝手に好きになって勝手にやめるって言ってるだけなの。先生は気にしないでね、ただ、言っておいたほうが……いいかなって思っただけ」

「お前を混乱させるようなことをしたのは俺だ。謝らなくていい」

「……」

 笑うつもりでいたけれど笑顔が浮かべられなかった。

 話題を転換するタイミングも逃がし、継ぐ言葉を失った花乃がスプーンで紅茶をくるくると掻き回し続けていると、英秋は唇の端に苦い微笑を刻んで言った。

「ただまあ一言言わせてもらうなら、お前を『ただの生徒』に戻すのはお前自身じゃなくて俺だろう。俺がおまえをそう見ない限り、ただの生徒には戻しようがないからな」

 その言葉に織り込まれたのは、彼のさまざまな感情。だがその言葉の絢を解いてひとつひとつ取り出すことは、不器用な花乃にはできなかった。漠然とそうなのかと納得するのが関の山だ。

『自分はただの生徒ではなかったのだろうか』『ただの生徒の対義語は何なのだろうか』と押し寄せる感情を紅茶で一気に飲み下して、花乃は沈黙を保ったまま英秋の言葉を待った。英秋はさきほどの続きには触れずに、突然話題の矛先を変えた。

「しかし、花嫁がお前のゆめだって? らしいというかなんというか」

 花乃はかすかに頬をそめて、懐かしむように笑った。「最初はおとぎばなしからだったと思うの。いつだってお姫様たちのハッピーエンドは、大好きな王子様と結婚してずっと幸せに暮らしました、でしょう? どんな幸せが待ってるんだろうって思った。お話を読んでくれるママもね、すごく優しい顔で幸せそうでね。いいなあって……多分それがきっかけです」

 大きくなるにつれて自分がお姫様でもなんでもないことを知りはしたけれど、不器用で要領の悪い自分でも、きっと一生かければ一人くらいは幸せにしてあげることができるんじゃないだろうかと思うようになった。勉強も運動もできないけれど、誰かのために一生懸命になることならできる。それならその幸せを、いつか自分の王子様に作ってあげたいと思った。

(それは、センセイじゃなかったけど――)


 英秋は俯いて小さく笑った。

「お前はさぞ甘やかされて育ったんだろうな、見てればよく解る。だが俺は誰かを愛しいと思ったことなんかないし、感情のみの繋がりで誰かと生涯一緒に生きようとは思えないんだ。そういう意味でもお前の判断は正しいと思う。俺には誰かを幸せにする大層な力はないからな」

「そんなはずない……ううん、もちろんわたしのことじゃなくていいの。たとえば、先生だって先生のパパやママのこと好きでしょう?」

「残念ながら、そう思った記憶なんかない」

 根元からすっぱりと雑草を刈るような返答に花乃は口をつぐんだ。花乃には信じがたい回答だったが、重ねて問いかけるにも髪で隠された英秋の表情が読めずに余計戸惑ってしまう。

「じゃあ、……きらいなの?」

 絵に書いたように『おそるおそる』尋ねる花乃に、英秋は再び小さく笑ったようだった。

「さあな。そんな感情を抱く暇もなかったと思う。気付いたときには」

 紅茶を手にとって、静かに一口飲んだあと、たゆたう湯気を散らすため息とともに彼は言った。

「いなかったし」

 しばらく沈黙があった。花乃にも英秋の迷いは手に取るように解っていた。

 やがて、英秋は伏せていた睫毛を上げて、机の上で両手を組んだ。花乃に向き合うことを、過去の自分と向き合うことと重ね、そして決心したようだった。


「俺の両親は、教師だったんだとさ」

「え……」

「覚えてるわけじゃない。俺が小学校に入る前、両親は事故で死んだ」

 花乃は目を瞠いて英秋を見返した。この部屋の深い深い静寂が突然襲いかかってくるような錯覚に襲われる。この冷たい空気は孤独と虚無だ――彼の心の世界だと直感で悟った。

「ひとりぼっち?」

「そう。すぐに俺は叔父の家に引き取られたけど、そこには従兄弟たちがいた。彼らと俺とはあきらかに待遇が違った――今思えばそれこそ笑い話になるくらいひどい扱いだった気がする。それでも学校に通わせてくれていたことだけは、有り難いと思うけど」

 英秋は不意に右手で胸元を探り、そこに探すものがないことに気付いたのか少し自嘲じみたかたちに唇を歪めた。無意識でタバコを求めたのだろう。だが今日はそれをわざわざ立ちあがって手に入れることはせず、もてあました右手で髪をかきあげて、小さな吐息をもらした。

「両親がいたころはもっと優しい人たちだったような気がしていたのに、なんで突然こんな風になってしまったんだって思った。そんな状態だったから中高と進むうちにどんどん荒れて、なんか毎日勉強なんかそっちのけでケンカばっかりしてたな」

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