79:ウェールズの王子様・1
『来週土曜 駐車場に1時』
この日は全学年通して授業はなかったが、部活動や自主登校の生徒のために門や校庭は出入り自由になっていた。通常日ほどではないが、制服やユニフォームを着た生徒の姿もちらほらと見受けられる。テニスコートに響くラリーの球音も、先ほどから間を開けてここまで届いていた。
花乃は制服の上からごくありふれた灰色のコートを着込んで、がらんとした駐車場の隅にじっと佇んでいた。晴れているのにフードをかぶり、マフラーで口元を丸々覆った姿はある意味異様ではあったが、駐車場に出入りする人影はなかったのでそれを見咎められることはなかった。
冬枯れた梢の向こうに広がる空は、目に痛いような青。佇んだままそれを仰ぎ見て、花乃は皮肉にも見えるその色をむしろ好ましく思っていた。すっぱりと何も残さず、清々しいほどに快い。
エンジンの音とともに、一台の車が駐車場へ入ってきた。車の種類に疎い花乃にもぼんやりとだが見覚えのある車だった。太陽の光を鈍く反射して近付いてきた銀色の車は、花乃から少し離れたスペースに停車した。
注意深く見つめていると運転席の窓が僅かに開き、運転手の手がひらりと一度だけ翻った。花乃は足元に置いていたトートバッグを掴んで、小走りでその助手席側の扉へ向かった。
「しつれいします」
引くだけで簡単に開いたドアの隙間から助手席に滑り込む。運転席から伸びた手が荷物を後部座席に載せかえてくれたので、のろまな花乃でもスムーズにシートベルトを締めることができた。
「なんて格好だ」
静かに笑うその声につられて運転席を振り返った花乃は、いつも見なれた彼とは違うその姿に少しだけ驚いて、目を丸くしたまま見つめ返した。 「センセイだって……」
そこにいるのは英秋に違いなかったが、セーターにジーンズといったラフな格好のうえいつもは絶対に見かけないメガネまで装着している。拓也が相手なら何の違和感も感じないのに、英秋の場合は見なれないせいか妙に緊張してしまう。
「ああ……これは念のためだ。お前のその格好よりはマシだろう?」
花乃は少しだけとがらせた唇をマフラーから覗かせて、それでも素直に「ハイ」と答えた。
彼にそんな気遣いをさせてしまうのも、ひとえに自分が生徒だからに違いなかった。それが申し訳なくて――いたたまれなくて俯く花乃に、英秋は低い声で尋ねた。「どこか」
「え?」
「どこか、行きたいところはあるか?」
まさかそんなことを尋ねられるとは思っていなかった花乃は、真顔で隣の教師を見上げた。彼はとても穏やかな顔で気長に花乃の答えを待っている。きっと何を言っても叶えてくれるだろうと悟った花乃は、刹那様々な夢を胸の中に描いたが、最後には微笑んで首を振った。
「お話があるのでしょう? センセイが良ければ、もう一度、センセイのおうちに行きたい」
「……」
「あっ、ダメならうちでもいいんです。佳乃ちゃんは空港行ってるし、パパとママはデートでお留守だから」
英秋はしばらく問い直すような視線を花乃に向けていたが、相手の瞳に迷いがないことを知ると、どこか諦めの混じった微笑みを浮かべて頷いた。花乃も内心驚くような、今までには考えられなかった柔らかな対応は、逆にこの先の話の内容に対する心がまえを与えることになった。
それでも、その笑顔を綺麗だと思う。とても愛しいと思う……。
「いや、うちでいいならそれで構わない」
英秋の部屋は半月前に訪れたときから少しも変わっていなかった。
案内されたリビングはがらんと寒く、慢性的に生活感が不足した乾いた空気に満たされている。立派なテーブルもキッチンも与えられる仕事がなく所在なげで、花乃から見ればどこか気の毒な風景だった。脱いだコートとマフラーをソファに預け、トートバッグはそのままダイニングに持ち込む。いきなりきびきびと動き始めた花乃を、英秋は眼鏡を外して怪訝な表情で追った。
「じゃーん!」
花乃が大層な掛け声とともにキャンバス地のバッグの中から取り出したものは、何故か陶器のポットだった。それから、振るとさくさく音がする缶、パッチワークされたミトンのような布、いわゆる茶こし、銀色の小さな水差しが二つにアンティークなスプーンのようなもの。なんとなく予想はつくものの、彼が今までに手にしたこともないような道具ばかりがざらざらと出てくる。
「なんだ、これ……紅茶?」
「えっへへ、七つ道具です。一度はごちそうしようと思ってたの、わたしの大好きなもの」
「俺はコーヒーしか飲めないぞ」
「いいの、いいの」
座っていてと薦められて、英秋は大人しく花乃の向かいに腰掛けた。
最後にバッグから取り出したエプロンをふわりとその小さな身にまとって、バレッタでゆるく髪をまとめ、花乃はまずケトルをコンロにかけた。その合間に傍らの食器棚から数少ないカップとソーサーを取り出してきて、沸いた湯をポットとカップに注ぐ。そしてまた火にかける。
「何してるんだ」
「先にお湯で温めておかないと、うまく蒸らせないの。面倒でしょう?」
まったくだと言って閉口する英秋に、花乃は笑いかけた。
「でもね、わたしはやっぱりわたしにできる、いちばんの魔法をかけたいの。わたしの大切な人にはいつでも、いちばん美味しい紅茶を入れてあげたいし、それを飲んでほしいから」
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