58:恋の理想と現実・3

「誰かを傷付けて手に入れるものなんていらない。そんなのほしくない、恋なんかじゃない」

 両手で顔を覆って激しく頭を振る花乃に、千歌は即座に切り返した。

「あんたは恋愛をなんだと思ってるの。そんなのただの理想か、おままごとよ」

「そんなこと、ない」

「ううん、知ってるはずよ。あたしたちは好きになる人を選べるわけじゃない。――花乃は現に福原くんを傷付けてる」

 唐突に忍のことを持ち出されて、花乃はしばし困惑し、息を止め、やがて愕然とした。好意を抱いてくれていた忍をままごとの恋に巻きこんで、すべてを曖昧にしたまま、何度も裏切った。今までその気持ちを考えもしなかったことが何よりの証拠。それは、花乃に幾度目かのダメージを与えた。

 千歌は花乃をいたわるように声を抑え、それでも突き放すような口調で言い放った。

「だからこそ、好きになった人と幸せになりたいと思うのが当然のことでしょう。あたしは、奪い取ったことを後悔なんてしない」


 なんて強いんだろうと、花乃は顔を伏せたまま思った。けれどそれと同時に、花乃の中に決定的なものが生まれた。自分に対する決意と、千歌に対する一本のライン。

 それはまっすぐに、花乃と千歌の間を横切った。

 このとき、ポリシーにおいて、親友とは完全に決別したのだと花乃は自覚した。千歌のことは大好きだし、きっと今まで通りに接することが出来るだろう。けれど、もう全幅の信頼をおいて頼り切ることはしたくなかった。

 顔を上げた花乃の目によぎったものを千歌は見た。それは佳乃と同じ強い光だった。

「理想だって言われてもいい。それでも、わたしは誰かを傷つける恋なんてしたくない」


“どこにいるの、みんな心配してるのよ”

(ウソついてごめんね、佳乃ちゃん、パパ、ママ)

“OKをくれてありがとな、うれしかった”

(――辛い思いさせて、ごめんね、福原くん)

“ひどい屈辱なのよ”

(ごめんなさい、ほのかさん)

“あなたも英秋も、学校にはいられなくなるかもしれないわね”

“どうしようもないな、お前は”

(……センセイ、最後まで迷惑ばかりで、ごめんね……)



 この恋が、福原くんやほのかさんや、先生や――わたしを傷つけるものでしかないなら。

 わたしはもう、その花に水をあげるのをやめる。

 それが静かに枯れていくのを、じっと最後まで見ている。



 佳乃は怒りと不安で地団太を踏みながら、姉の帰りを待っていた。

 昨夜のあの電話以来、佳乃は気が気ではなかった。『どうだったの~』と無邪気に尋ねてくる夕子や母親たちにまとめて冷水を浴びせかけて、その衿首をきゅっと締め上げたいほどに動転していた。けれど、唯一事情を話した拓也の取り成しもあり、必死の形相でアリバイをたてたのだ。

「な、なんか友達の家が山の方で。雪で帰れなくなっちゃったから、泊まるって花乃」

「はぁ? この大都会の何処にそんな遭難するような山が」

「や、やまなのっ! 誰がなんと言おうと山なの!」

 これほど動転していなければもっとマシな言い訳ができたろうが、このときの佳乃にそんな余裕はなかった。花乃のことはこの上なく大事。ものすごく大事。しかし、なにゆえあの変態教師までかばわねばならんのか。腸の煮え繰り返る気分というのは、まさにこういうものだろうと佳乃は確信していた。

 その上、昨夜花乃からの連絡に安心したと思えば、今朝になってまたドタキャン。

(どうしちゃったのよ、約束やぶるような子じゃなかったのに……! 絶対アイツのせいだ!)

 何度学校まで押しかけて磐城とかいう教師を叩きのめそうと思ったことか。入試日の学生立入禁止令が、激昂闘牛状態になっている佳乃を辛うじてリビングに足留めしていた。

 花乃の携帯は、朝の「ごめんね」からずっとオフ状態で。

(……花乃、ちょっとおかしかった)

 携帯越しの篭った声では確信は持てず、その曖昧な予感が余計に佳乃の不安をかきたてた。勉強できるような精神状態ではなかったので、昼過ぎからずっとソファに体を丸めて、落ちつきなく足を小刻みに揺するクセを紫乃に何度か注意された頃、玄関のドアが静かに開く音がした。

 顔を上げた佳乃が見た窓の外は、鈍く赤錆びた鉄の色に移ろいかけていた。

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